本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第20号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。
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哲学の基礎には天文学への関心がある
福嶋 このあたりで少し柔らかい話をしましょう。佐々木先生は音楽や鉄道、天体観測などいろんな趣味をお持ちですよね。星を見るのは昔からお好きだったのでしょうか?
佐々木 ええ、今、住んでいる東京ではあまり見えませんが、星空に対する憧れはずっとあります。哲学でも例えば『実践理性批判』の結びで、カントが畏敬の念を抱いて止まないものとして「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」が掲げられていますが、やはり西洋哲学を勉強すればするほど、宇宙の秩序と哲学の論理性はつながっている気がします。
もともとギリシャ哲学もそういう発想のもとに行われていたものです。ロゴスというのはコスモスにも行き渡っているもので、人間も言葉を解してロゴスを持っている。人間がロゴスを使って理論を展開すると、それは宇宙そのものの表現にもなるという信念がギリシャ人にはあって、それは自然科学の誕生ともつながっている。そうした意味で、西洋の哲学を学ぶことは、自然科学、とりわけ天文学みたいなものに関心を持つことにもつながっていく。ブラックホールやダークマターといった最新の天文学理論も哲学にとって大事な要素だと思います。宇宙がどのようにロゴスでもって説明できるのか、そしてそのロゴスのある種の限界を徹底的に追求しようとしている。それでも説明できないことが残るわけですが、そういうロゴスを使って我々は哲学をやっていると自覚することで、単に人間だけの狭い理論にならないようにしようという配慮がありますよね。
福嶋 カントは天文学ももちろん勉強していたし、地理学にも詳しかった。
佐々木 カントは太陽系の起源の研究もしていて、カント=ラプラスの星雲説というものもありますからね。
福嶋 ガリレオやヨハネス・ケプラーがそうであるように、自然科学だって星を見るところからブレークスルーが起こって、その後の驚異的な発展につながっている。しかし、カント以降の哲学者はだんだん星を見なくなっていくわけですね。それは知性の健康にとってよくない。
カント以前にジョルダーノ・ブルーノが「宇宙は無限だ」ということを言ったわけですね。もし宇宙が無限であってみれば中心がどこにもないことになり、それは神学的に問題があるということで抹殺されてしまう。しかし、ブルーノのような天体の観測者がいたからこそ、神の権威を相対化する近代思想も出てくるわけですね。そういうことをもう一度思い出すのは大事かもしれません。
佐々木 はい、天文学への関心は哲学の基本だと私は信じています。
福嶋 佐々木先生はどういった星が好きなのですか。
佐々木 私は天体望遠鏡も持っているのですが、東京で面白いのは重星を見ることです。重星というのは実はとてもたくさんあって、青い星と黄色っぽい星と、色の違う星が2つ並んでいるととてもきれいなのです。素人向けの望遠鏡でも300倍ぐらいに拡大すると、肉眼や双眼鏡で1つに見える星が2つに分離して見えるのです。有名なところでは夏の星座のはくちょう座のはくちょうの頭になっている二等星が重星です。「嘴」を意味するアルビレオという名前がついています。青と黄色の綺麗なコントラストがあります。春の星座の牛飼い座にも非常に美しい二等星の二重星があって、ラテン語で「一番美しいもの」という意味のプルケリマという名前がついていたりします。夏の七夕星のひとつ織り姫星ベガがある琴座には、ダブルダブルと言われる二重星が二つ近くに並んでいる珍しいものもあります。
望遠鏡を使うと、例えば木星の縞模様などもちゃんと見られます。「エウロパ」とか、木星の主要な4つの衛星は双眼鏡でも見ることができますよ。