本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第20号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

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教養教育をめぐる環境の変化

福嶋 今日は佐々木先生のご退職を前にして、記念のインタビューをさせていただくことになりました。先生の大きな関心として、一方にハンス=ゲオルク・ガダマーを中心とした哲学研究があり、他方で大学における教育の問題について現場の先頭に立って取り組んでこられたということがありますね。
まず後者から伺っていきたいのですが、先生が立教大学に来た当時と現在を比べて、大学や学生の雰囲気は変わりましたか。

佐々木 私が立教大学に着任したのは1989年ですから、今年で31年目になります。当初は一般教育部に所属しており、95年に文学部に移籍しました。ですから文学部に限らずいろいろな学部の学生と接していたのですが、当時、バブル経済もまだ華やかなりし頃の大学生というのは、これは立教に限らず、「大学生なのだから知的に成長しよう」という文化がまだあったように思います。それから間もなくバブルが崩壊して、世の中が全体的に貧しくなっていくと、若い人の関心が知的なことよりも自分の食い扶持を得ることに向くようになってしまったという変化はあると思います。

福嶋 日本では1991年に当時の文部省による大学設置基準の大綱化があり、大学の環境は大きく変わりました。先生の立教での教育経験は、大学の仕組みの変化と併走していたわけです。このおよそ30年間の大学のシステムの変質と学生のマインドの変質はつながっているとお考えでしょうか。

佐々木 80年代には既に日本の大学全体で教養という概念がかなり揺らいでいて、それが91年の大学設置基準の大綱化につながったわけですが、結果として教養教育が表立ってなくなることで、そういうものは必要ないのだという感覚が大学人の中に広がってしまったと思います。学生も「パンキョウ」といった蔑称を使って「楽勝科目を集めて単位さえとれればいいのだ」というような受け取り方をするようになり、教養教育が名実ともになくなっていってしまった。そうした中で各学部は自分の学生と1年生の時から向き合うという目標を掲げたわけですが、専門的知識を早く身につけさせようとする姿勢で学生に向き合うようになったのです。ところが実際の学生たちは本当にピンポイントでしか受験勉強をせず、塾や予備校でもピンポイントで点をとる技術を教えたりしたものですから、小手先の技術ではない知的な体力が十分養われていないのです。それに加えて大学も「専門だけやっていればいいよ」と言うものだから、本当に狭い範囲内でしか積み上げをしていない学生が育つ。横の分野にはほとんど関心がないし、わからないことは専門家に任せればいい、という気風が育ってしまったように思います。

福嶋 今の学生は総じて見切りが早くなっている。大学院生も自分のフィールドはここからここまでで、それ以外のことには無知というケースが多い。しかし、それでは異種交配が起きませんからね。

佐々木 それは大学文化を根幹から揺るがしてしまいます。