文化とマゾヒズム

福嶋 先生はクラシック音楽もお好きで、ピアノを演奏されると伺いました。

佐々木 そうですね。私の世代が小学生の頃、1960年代前半というのは日本にピアノが普及した時期なんです。ヤマハと河合の二大メーカーが全国の小学校にピアノを売ってまわり、一般家庭にも爆発的にピアノが普及していった。どこかの家が買うとそのご近所もみんな月賦で競って買ったんです。私の近所でも子どものいる家にはほとんどピアノがあり、私の家にもありました。

福嶋 ピアノのある居間は日本の中流家庭の象徴ですが、それは60年代くらいからつくられていったのですね。

佐々木 そうやって子どもたちはピアノを習わされたのですが、長続きしない子がほとんどで、ピアノは埃をかぶって調度品になっていきました。そんな中で、私はピアノが好きになったんです。

福嶋 ピアノのどのあたりが魅力的だったのでしょう。

佐々木 練習は大変だし、先生は怖いし、あまりいいことばかりではなかったのですが、たまたま私が習っていた小さなピアノ教室で、なぜか一番上手だったんです。音楽の授業も好きでした。当時の学校では最初によくワーグナーのタンホイザーの行進曲みたいな華々しい曲を聞かされたのですが、それを聞いてすごいな、きれいだなと憧れるような子どもだったので、ピアノにも馴染んだのでしょうね。中学受験をさせられた時に母親から「もうピアノはやらなくていいから勉強しなさい」と言われて一旦止めたのですが、中学へ入ったらショパンの練習曲なんかを弾ける同級生がいて、それに刺激を受けてもう一回始めたんです。とはいえもう誰に習うわけではなく、自分で好きな曲の楽譜を買ってきて独学で納得のいくまでやるわけです。小学生の時に聞かされた中でもドイツ系の音楽が好きで、ピアノもベートーヴェンが好きでした。高校生の頃は1日4時間ぐらい弾いていました。

福嶋 ピアノへの興味と思想への興味の結びつきはあったのでしょうか。

佐々木 戦後に活躍したフランス文学者で哲学者の森有正はオルガニストでもあって、「思索の源泉としての音楽」というレコードまで出しているんです。学生の頃はそういうものに憧れていました。

福嶋 クラシックの歴史に即すると、19世紀までが作曲家の時代だとしたら、20世紀は演奏家や指揮者の時代だったと思います。演奏行為がまさに「思索」に近くなっていくという一面もあったでしょうね。

佐々木 ただ、現代思想は結構もてはやされましたが、現代音楽と現代美術は日本ではさほどポピュラーではないでしょう。現代音楽は形而上学の極致まで行きすぎて、アーノルト・シェーンベルクといった人たちは現実離れしてしまったところがある。ただ、個々に聴いてみると魅力的な曲は結構あると思います。

福嶋 媒体の変化ということで言うと、今は何でもネットで聴けてしまう。しかし、レコードはもとよりCDを買っていた時のほうが明らかにしっかり聴いていたと思います。今はひとつひとつの音楽を丹念に聴く有り難みというのはなくなってしまっている。

佐々木 ベンヤミンに言わせればレコードはコピーですからアウラがないのかもしれませんが、今思えばありますよね。聴くための儀式がありますから。

福嶋 おっしゃるとおりですね。確かに、レコードは宗教的な覚悟を決めなければいけませんからね。1回かけてしまうとそれを聴かざるを得ない。

佐々木 途中でやめられないし、途中から始めようとするとレコードが傷んでしまいますから。

福嶋 文化には一種の苦しみというか、マゾヒズム性が必要です。今はその要素が薄れていて、我慢しなくていいようになってきている。映画だって座席に2時間縛り付けられているということが大きいわけです。途中で「もうつまらないから出たいな」と思っても我慢して観ていると、何か発見があったりする。

佐々木 ハリウッド映画なんかは、90分以上になるとお客さんが我慢してくれないからその尺に収めていると言いますよね。

福嶋 もちろんその制約の中でも面白いものをつくっている人はいると思いますが、やはり縛り付けられるという体験がないと、なかなか文化や芸術には帰依しなくなるでしょうね。

佐々木 私が学生の頃に観て衝撃を受け、以来何度も観ている『2001年宇宙の旅』は途中で休憩が入るくらいでしたから。『アラビアのロレンス』も途中で休憩が入りましたね。ああいう休憩の入った映画が懐かしい。最近観た、『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』というニューヨークの市立図書館を扱った映画も、途中で休憩も入るし、すごくよかったですよ。

福嶋 そうですね。退屈を愛せるかどうかは、文化や芸術を享受する上で決定的に重要だと思います。

佐々木 学問というのはそういうものだと思います。今は刺激が強いですし、次々と新しく変わっていくでしょう。我慢しない人のための文化になっている。

福嶋 同感です。だいたい外国語を読むことだって我慢の連続ですから。

佐々木 そうですよ。若い学生にはそういう根気を持ってもらいたいですね。