本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第21号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

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懸け詞と“詠む主体”

蜂飼 最新刊のご著書、『〈うた〉起源考』(青土社、2020)について、伺いたいと思います。

藤井 むしろ蜂飼さんの感想をいろいろと聞きたいと思います。

蜂飼 私自身は定型詩である短歌を詠まない、作れないです。本書から、日本語の詩を考える場合には〈うた〉を、つまり歌謡も含めた〈うた〉の領域から考えなければ見えないことがあると、改めて教えていただきました。
 まず、懸け詞についてです。この本で藤井さんは詳細に論じられていますが、これまでも、たとえば『文法的詩学』(笠間書院、2012)などで書かれてきたことです。双分的あるいは三分観という、レヴィ=ストロースから得たヒントを援用するようなかたちで、懸け詞に見られる論理上の破綻、屈折を論じられています。
「詩は技巧か、それとも技巧によってもう一つ高められた位置から自由に出入りできる精神的な行為であるか、問いかけることになる。きわめて意図的な言語の凝縮性に根ざした営為としてそれらはあろう。詩の成立を、そのような集中型の行為から導き出すことができるのではないか。懸け詞という中心をつよく意識するか、前半部と後半部との対立と見るか。屈折はそこにある何か―歌の地下にある何か―を覗きこむ装置であって、そこから深く降りてゆくことになる」と。

藤井 はい、そうです。

蜂飼 時枝誠記『国語学原論』(岩波書店、1941)の巻末が「国語美論」の章として「懸詞による美的表現」で締めくくられることにも、注目されています。「文の基本」とは「文脈」、つまり、“論理上の”筋を通すことではないかと。そこは時枝も〈思想上の統一的表現〉〈統一的思想〉と言ってきたことで、破綻がないことが原則だと。ところが、懸け詞は“論理上“の破綻を呼び入れる。いったん、「文としての筋」に混乱を生じさせ、分裂させようとする。「二文かと思うと、一文での破綻、混乱、分裂であり、文法上どう許容されるのだろうか」と、まずは書かれています。つまり、破綻、分裂、混乱がどんどん認められる状態にとっては「文法上の限界など、どうでもよいことになってしまう」と。
 時枝の示唆から、(a)二重の言語過程を構成する、(b)明瞭な対比が意識せられている、(c)論理的意味において連関を持たない、(d)一語多義的用法、といったことを拾い上げてみる。そのように藤井さんは整理されています。

『古今集』秋上、
  独り寝(ぬ)る床は 草葉にあらねども、秋来るよひは
  露けかりけり 詠み人知らず 188歌
  〔独り寝するベッドは草の葉っぱじゃないけれど、秋が来る、
   飽きが来る、あなたの来ない夜は露もしとどだった(、いまも)〕

 たとえばこの歌で、「露けし」に〈自然の露けき〉意と〈心のかなしき〉とが、2つの観念として、対立せられていると。〈論理的統一以前の矛盾せる二つの観念を、その矛盾のままに投げ出すところに意味がある〉という時枝の説明があります。

藤井 はい、時枝の説明はその通りですね。

蜂飼 これについて、藤井さんの補足はこうなっています。「正確には一語の意味のはばを利用して(同音に拠らないで)、その二つの意味を利用する懸け詞の方法としてある。あるいは、一語が二語へと分離する瞬間を狙った技法というように言えるかもしれない」。それは「文法的違反かもしれない」ということですね。
 さらに、「その和歌の懸け詞が歌全体のなかで真に生きられる。文が通常に持つ論理的統一に対して、破綻を持ち込んで(文法的違反の導入かもしれないように見せて)、しかしけっしてそこで止めることなく、一首の歌末において真の統一に至る」と書かれています。
 「真の主体、真の統一」といった言い方を繰り返しされていますが、このことについてお聞かせください。「統一させるのは“真の主体”とでも言うべき一首ぜんたいを支える主体が地下のような深層より出てくるからだろう」とまとめられています。これは、この一冊のなかでもとくに重要な論点だと思われます。時枝は「零記号」と呼んでいます。

藤井 はい、「零記号」ね。私は「ゼロ人称」問題にしています。懸け詞の問題、これまでも考えてきましたが、これでいいのではないかな、というところまで来られたと思っています。

蜂飼 たとえば、伊勢の歌です。

  『拾遺集』春、斎院屏風に、山道行く人ある所、
  散り散らず、聞かまほしきを、ふる里の花見て帰る人も 
  逢はなん
  〔散ってる? まだ散らない? 聞きたいのに、古い山里の花を
   見て帰る人にでも逢いたいことよ〕

 詠み手の伊勢が「聞きたい」「逢いたい」と思っているかどうか、誰がそう思っているか、ですね。「屏風に描かれている人に心情が託されているとでも理屈を言うならばともかくも、真の、“詠む主体”と詠み手とは乖離していると見られる」と、藤井さんは分析されています。つまり、57577の歌の中に詠む主体を作り出す、ということですね。「詠み手と詠む主体とは、付かず離れずで、実に和歌の実態はそんな詠み手と詠む主体との微妙な分離のもとに成り立つことが多い」と。たしかにそうですね。

藤井 はい、そうです。