人称と擬人称

蜂飼 詠む主体をどう捉えるのか、という問題です。「一人称、二人称は、当事者であるのに対し、三人称は場面の外部にある話題をなす」と。「そうした人称と別個に表現主体そのものの人称をゼロ(ゼロ人称)として認定したい」と書かれています。
 とりわけ大事なこととして物語中の語り手は、“引用の一人称”=四人称(物語人称)と藤井さんは呼ばれています。〈うた〉で言えば、「詠み手に対する“真の主体”に比すべきか」と。一首の短歌57577が目の前にあるとすると、「それを統率し、表現者として一首全体を奥底から支える主体を想定して、真の主体という名を与えることにしよう」。そして、『古事記』中巻、神武記の久米歌(12番歌謡)を例として引用されています。

  みつみつし くめのこらが、かきもとに、うゑしはじかみ
  くちひひく われは わすれじ。うちてし やまむ
  〔みつみつし(枕詞)久米の戦士たちが、垣の根元に植えた薑。
   (その薑が)くちびるにぴりぴり。(そのぴりぴりを)おいらは
   忘れまいぞ。打ち懲らしてしまう(までは)〕

 これについて、神倭伊波礼毘古が歌った「われ」は作中の一人称で、物語の登場人物、神倭伊波礼毘古が自身を引用して言う「われ」だと指摘されています。また、『落窪物語』も例に挙げられていますが、次の歌ですね。

  世中に、いかであらじと思へども、かなはぬ物は、
  憂き身なりけり
  〔世のなかに、もう何とかしてさよならしたいと思うけれども、
   かなわぬものはつらいこの身でありました〕

 落窪の女君の歌です。岩波文庫版『落窪物語』の校注は、藤井さんがされていますね。「物語じたいは三人称的世界で、そのなかに作中人物の“われ”がほうりこまれて物語歌があるとすると、人称上、一人称と三人称とがかさなりあってくる。一人称と三人称とが重層化する人称とは何だろうか」と書かれています。これが“引用の一人称”=四人称(物語人称)だ、ということですね。
 『日本文学源流史』でも『〈うた〉起源考』でも、四人称をめぐっては、アイヌ語に関しても藤井さんは取り上げられています。人称というと、学校文法では一人称、二人称、三人称までしか習わないと思うのですが、一人称と三人称が重なって、じつは第四の人称と呼んでもいいのではないかという領域が成り立ち得るということなんですね。

藤井 はい、そうです。そこはいろいろな手掛かりとなるところです。学校ではまず英語を勉強し、大学ではフランス語とかドイツ語とか、欧米に飛んでいきます。でも、たとえば折口はモンゴル語、朝鮮語、アイヌ語なども勉強しようとした。隣接語を見るということが大事というか、そういうことが本来の勉強かなと思うんですね。英語とかフランス語とかだけでなく、隣接するアイヌ語、琉球語。日本語とアイヌ語とはまったく違う言語ですよね。知らないといけないのはアイヌ語。

蜂飼 たとえば人称接辞ですか? 

藤井 そうです。アイヌ語では、人称接辞が大発達している。日本語とアイヌ語とはまったく違う言語。関係ないのに隣り合っている言語。四人称のことも、なんでこれまでほとんど無視されてきたのか。

蜂飼 今夏、北海道の白老町にウポポイ(民族共生象徴空間)が開業しました。その前にあったアイヌ民族博物館には行ったことがありましたが、ウポポイとなり、どうなっていくのだろうと。

藤井 はい。近代の中で、同化政策をずっと続けて、いまのアイヌ観が出来ている。そこから、ある意味で無難なアイヌ観、アイヌ語観が出来てきている。その終結としてウポポイになっているという観がある。

蜂飼 どのようになっていくのかと思います。

藤井 引き返せない部分も多いでしょう。厳しいものがあります。

蜂飼 話題を変えますが、称に関して、藤井さんはさらに自然称、擬人称という言葉を使って踏み込まれています。
 『古今集』仮名序から、

  なにはづに咲くや この花。冬ごもり、いまは 春べと咲くや この花
  〔難波津に咲く ええ 木の花よ。冬ごもりのあと、いまは
   春だと咲く ええ 木の花よ〕

 これについて「どんな人称なのか、正確に言うと人称personではありえない。自然称natureとでも言うべきものだ」と指摘されています。
 『万葉集』巻20、中臣清麿の歌、4296歌ですが、

  あまくもに、かりそ なくなる。たかまとの、はぎのしたばは 
  もみちあへむかも
  〔空の雲に雁が鳴くのが聞こえる。高円山の萩の下葉はね、
   ちゃんと色づくことかしら どうでしょう〕

 この歌について、「雁が鳴く、萩の下葉が赤くなる、というのは動植物の現象あるいは自然現象としてある」として、「動植物称」であり、つまりは「自然称」の一類と見ることができる、もしくは「擬人称」ともいえる、と指摘されています。
 さらに、『万葉集』巻20の4324歌、防人の歌として丈部川相の歌を例にされています。

  とへたほみ しるはのいそと、にへのうらと、あひてし
  あらば、ことも かゆはむ
  〔遠江(静岡県)、しるはの磯と、にえの浦と、
   隣り合っているのならば、ことばを通わせよう〕

 地名が詠み込まれ、命名によって固有名詞化する。それは「一種の擬人であり、そういう地名を擬人称としておきたいように念願する」と書かれています。

藤井 はい、それはちょっと、それでいいかどうかね、自分の中でも少しクエスチョンマークつけてますけど……。

蜂飼 現代詩の書き手として第一線で仕事をされてきた藤井さんですが、最初の詩集のタイトルは『地名は地面へ帰れ』(永井出版企画、1972)ですね。藤井さんにとって地名というテーマが大事なものとしてあると感じます。

藤井 はい、そうですね。

蜂飼 欧米語が立てている人称の「人」というものが、そのまま日本語に当て嵌まるとは言えないかもしれない、という観点ですよね。

藤井 もう本当にそういうことです。単純といえば単純ですけど。非人称と欧米語では言います。変な言い方。

蜂飼 『拾遺集』夏から、次の歌を引かれています。藤原実方の歌、124歌です。

  五月闇 倉橋山のほととぎす、おぼつかなくも
  鳴きわたるかな
  〔五月の闇(は暗い)。暗い倉橋山のほととぎすよ、
  (暗くて)足もと不安というのにさ、鳴いてわたるのかなあ〕

 “五月闇が暗い”という自然と、倉橋山という同音から成る固有名詞とを「またがらせて懸け詞にしたて、下の句でほととぎすの鳴き方のおぼつかなさへ融合させる」。こうしたことを例に「懸け詞の秀歌らしさは“称”を横断する仕方に出てくるのではないかと思いあたる」と、まとめられています。“称”を横断するというご指摘は、とても面白いと思いました。日本語の詩歌に見られる重要な特徴と言えると感じました。