時称について

蜂飼 時称に関する例をめぐっても伺いたいと思います。“現在”という時称についてです。『日本語と時間―〈時の文法〉をたどる』(岩波新書、2010)や『日本文法体系』(ちくま新書、2016)などでも、さまざまに論じられていたテーマです。「き」と「けり」の違いについてなど、大変興味深いです。
 ここでは、例としてたとえば『古事記』中巻、景行記の弟橘比売の歌謡(24番歌謡)を挙げられています。

  さねさし さがむのをのに、もゆるひの、ほなかにたちて、
  とひ〈し〉きみは も
  〔(あのとき、)さねさし(枕詞)相模の小野に、
   燃える火の炎のなかに立って、呼びかけたあなたは、ああ〕

 この「とひ〈し〉」(呼びかけた)は、もう過ぎ去った過去の時点を指している、と。そして、詠む現在からの感懐は「は も」に特にこもる、と分析されています。その次に、例として『古事記』から倭建の歌謡(33番歌謡)を挙げられています。

  をとめの、とこのべに、わがおき〈し〉、つるぎのたち、
  そのたちは や
  〔おとめの床のそばに、私が置いた剣の太刀。その太刀は、やあ〕

 「は や」の“現在”も感懐を示します。「き」の連体形「し」によって、過去は示されるということですね。主人公はこれらの歌の詠み手となりますが、それは、そういう“現在”が「説話の中に造成される中で生じる」とも書かれています。
 また、『万葉集』巻20、防人の歌として上毛野牛甘の歌(4440歌)を挙げられています。

  なにはぢをゆきてくまでと、わぎもこがつけ〈し〉ひもがを、
  たえに〈ける〉かも
  〔難波への旅路を行って帰るまでと、吾妹子が(出発前に)
   縫いつけた紐の緒が、切れてしまいました、ああ〕

 「き」と「けり」とを対比して詠む歌は少なからずあり、それは過去と現在との対照を浮かびあがらせる。時制的な「き」と、時間の経過をあらわす「けり」とは、前者の過去に対し、後者が現在であろうとする。ここにはさらに「に(=ぬ)」があるから、「(紐の緒が)切れてしまいいまにある」。強調してし過ぎることのないことがらとして、「けり」の中心的な機能は「以前からし続けていまに至る時間の経過」を指し、けっして過去(過ぎ去りし時間)そのものではない。まして詠嘆でなくて、「かも」がその感懐を引き受ける」と、まとめられています。学校文法で「けり」は詠嘆と教えることへの疑義を提示されています。藤井さんは、このテーマについて、長い間、繰り返し論じられてきていますね。

藤井 はい、まさにそうですね。繰り返しだけど、繰り返し書くうちに自信が出てきたというか、「言っておこう」と。学校文法と対峙するわけですから。

蜂飼 他の例として、たとえば『万葉集』巻1、柿本人麻呂の長歌(45歌)に触れられています。いわゆる「阿騎野遊猟歌」と呼ばれる歌ですが、藤井さんは、いつから、誰が「遊猟」歌と呼び始めたのだろうかと、まずこの呼称に対しての疑問を提示されて、論じられています。白川静の『初期万葉論』(中央公論社、1979)でも、この長歌に「狩り」はまったく詠まれていないことが指摘されていると言及された上で、狩猟が詠まれていない以上、狩猟に伴う長歌だという前提を保留ないしは否定すると、反歌も含めて論じられています。

  日双し(の)皇子(の)命の、馬副めて、御獦立たし〈し〉 
  時は来向ふ
  〔ひなみしの(枕詞)皇子のみことが、馬を並べて、お狩りに
   立ちあそばした、(その)時は(いま)こちらに向かって来る〕

 反歌(49歌)ですが、これについて「宇陀野の一帯へ、父である草壁が以前、たしかにやって来た、という表現なのに」万葉学はそこを見逃してきたのではないか、と指摘されています。助動辞「し」(終止形「き」)は「歴史的過去や神話的過去を特定する」ためにある、と。
 いま、岩波文庫版『源氏物語』全9巻が刊行中ですね。藤井さんも校注者のお一人として中心的なお仕事を展開されています。第8巻がもうすぐ出ると思いますが、刊行開始から現在の時点で3年以上経過していて、終わりが見えてきたところでしょうか?

藤井 はい、時間が掛かりました。

蜂飼 『源氏物語』の歌についても、『〈うた〉起源考』でさまざまに論じられています。とくに「夕顔」巻の、中将のおもとの歌をめぐる箇所ですね。

  朝霧の晴れ間も 待たぬ、けしきにて、
  花に心をとめぬとぞ 見る
  〔朝霧の晴れ間も待たない、(まだ眠たい)様子のまま、
  (あなた様は)花(女主人=六条わたりの女)に心を
   置きっぱなしで、と見受けるよ〕

 「ぬ」という一語の解釈の違いについてですが、それを否定ではなく、「〜てしまう」と、終止形と取る見方を示されています。谷崎潤一郎、北山谿太、山岸徳平、松尾聡、玉上琢弥、旧全集、新編全集、すべて「ぬ」を「否定」で理解しているが、新大系だけが「〜てしまう」を堅持する、と。文法的な違いが解釈に反映する例ですね。

藤井 はい。ちょっと勇気が要るけど、これも言っておこうと思って。