本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第21号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

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神話と歴史と構造人類学

蜂飼  2016年に刊行された『日本文学源流史』(青土社)は、日本文学史を5つの「紀」に分けて考えるという独自の発想に基づいて書かれています。まずはこのことについて伺えますか?

藤井 文学史の始まりというのは、どこか歴史学や考古学に首根っこを摑まれるかたちで始まったんじゃないかと思うところがあるんですよ。最初、縄文時代があって、弥生時代があって、古墳時代。それでいつのまにか『古事記』、『日本書紀』が話題となって、歴史の始まりと文学の始まりとが接木されている。文学史というのは、それでずっと来たんですね。
 2000年に考古学ででっち上げ事件があったでしょう? 最初は、宮城県の上高森遺跡、座散乱木遺跡。それからはもう、あちこち出てきて。旧石器発掘捏造事件と呼ばれていますね。

蜂飼 “神の手”ですね。衝撃でした。186箇所の遺跡から出土したとされた、およそ3000点の資料に影響が及んだそうですね。70万年前にまで遡ると言われた旧石器時代が、3万年前に戻されました。あのとき、ちょうど講談社から日本の歴史のシリーズが出ていて。買った本だったので、覚えています。すぐ回収されて、改訂版が出されましたね。

藤井 そうです。すぐに改訂版が出て、それで考古学は生きちゃうわけでしょう。私はそのころ、文学史の本を頼まれていて、自分の原稿にすでに引用してしまっていた。いや、それはもう、自分を呪った。出来上がった『日本文学史』の本、破り捨てました。冒頭に、旧石器時代の発見ということで、入れちゃったんです。本はすでに出てしまっていましたから。数年間、立ち直れなかったですね。許しがたいでしょう?

蜂飼 そうですね。

藤井 旧石器時代なんて古くて反証できないですからね。縄文土器は文様に神話を見出すとか、弥生時代の青銅器の表面の文様に神話を見るとかいった方法があって、考古学の人たちは、土器とか土偶とかに始まりを見る。それに対して、文学史からいったら、神話から始めることでいいんじゃないかと。だけど、神話が手に入るかどうか。そこに、クロード・レヴィ=ストロースからのヒントがあった。

蜂飼 藤井さんは「火の起源、たばこの起源、蜂蜜採り、動物たちとの共存、星空の天体などの、新石器紀の神話と見なすことのできる、それらの語る内容の“豊富さ”に驚倒させられた」と書かれています。南北アメリカ大陸の先住民の神話を分析した『神話論理』(Mythologiques 全4巻、1964-1971)、レヴィ=ストロースの構造人類学の中心的な著作ですが、これが日本語に翻訳されたのは意外と遅かったですね。『生のものと火にかけたもの』、『蜜から灰へ』、『食卓作法の起源』、『裸の人』ですね。日本語訳では『裸の人』が2冊の分冊になっていて、みすず書房から刊行されました。

藤井 はい、遅かったですね、邦訳は。21世紀になってからですから。私は70年代の半ばに、原本、英訳本、手に入れられるものは求めました。そういうかたちで、日本語訳されたのは遅かったにしろ、だいたい想像のついていた中身です。この『神話論理』をベースにしていいんじゃないかと。単にベースにしたらいいというんじゃなくて、その時代は地続きでしょう。ベーリング海を渡って、アジアから新大陸へ移動した人たちがいて。

蜂飼 遺伝子研究などからもわかってきたことがあるようですね。

藤井 ええ。日本列島も1万何千年前には大陸と地続きだったから。同じような経過があったんじゃないかと。

蜂飼 はい。日本列島にはレヴィ=ストロースの基準神話に出てくるジャガーやコンゴウインコはいなかったけれど、別のかたちでいろいろな生き物がいて、と。藤井さんはそのように書かれていましたね。日本列島と言っていいのかどうか、わからないですが。

藤井 そうです。原日本列島と言えばいいか。そこに水鳥とか、オオサンショウウオとか。結果としては考古学の人たちが考えたことと同じようなことになるんだけど。そんなところから始まったと考えるわけです。考古学がいちばん、文学史の友達というか、大事なアイデアがそこにあるんだけど、より確実に、日本列島に神話の時代があったと想定する。

蜂飼 藤井さんはこう書かれています。「神話紀をおよそ、一万六千五百年まえから、三千年近いまえくらいまでのあいだに置こうと思う。つまり新石器時代の縄文期に神話紀を置く」。その次に、弥生時代に、昔話紀(民話紀)。それは「三千年近いまえから始まり、紀元二、三世紀くらいまで」と。
 非常に面白い点だと思うのですが、昔話は「時代から時代への危機的な移行期において大量に発生する」。縄文から弥生への移行期に、その衝撃によって「昔話(民話)が大量発生」した。「交替期のショック」という言葉も使われています。藤井さんの他にこういうことを言われている人はいるでしょうか? 

藤井 他にそういう議論はないと思いますね。昔話研究をしている人とか、いろいろいるけれど、極端な場合、発生は室町時代だって言うんですよね。だけど私はそうじゃないと思っているんです。

蜂飼 それは口承の伝統という観点からですよね。遡ればそのくらい古いところに源を見ることができるはずだ、と。こう書かれています。
 「文字の歴史が日本社会で千数百年か、最大見積もって二千年とすれば、昔話なる世界はそれ以前からあることになる。二千年以上、多く見て三千年という時間を通過してきた計算としよう。三千年まえと言えば、述べてきたように、縄文時代から弥生時代への画期がその辺りにあった。昔話の発生ないし流行をそこ、原神話の次の時代に定めてみると、見えてくることがいろいろあるのではないか。
 昔話は世界に共通するから、基盤をおなじくして、そのうえで各言語文化上の特色を持つはずとしよう。世界の諸言語は精神文化を含む、各自の文明とともに発達してきた。それらのすべての諸言語に、昔話に相当する口承文学が兼ね備えられてあることを思うと、日本社会にあっても、縄文時代から“昔話の原型”は行われており、弥生時代という画期になって本格的に昔話として姿をあらわした、という見通しを考えたい。世界史のなかに置いてみれば、三千年の史前史は「分からない」で抛っておいてよい悠久の昔ではない」。
 口承である以上、想像が及ぶところよりもはるかに古い段階に発しているだろう、というのが藤井さんの説ですね。

藤井 はい、そうです。そこを強調したいですね。『日本文学源流史』、『〈うた〉起源考』に続く3冊目を、もし書くならばそこから書くことになると思います。言語的に、昔話って、現代でも現代語で語るし、3000年前でもそのときの現代語で語るってことでしょう? 3000年間、現代語で続くって問題、これをどう考えたらいいんだろうかとね。これは考え出すとまたショックなことで。

蜂飼 はい。そのときの現代語だということですね。