「真の文法」と現代短歌

蜂飼 第二十七章で、こう書かれています。「意味が構成する〈文法〉(それは論理から成る展開)を、下面から支えるもう一つの文法が「辞」の世界にほかならない。古典和歌などで〈序詞や懸け詞〉(と、ここで古典和歌がちらりと出てくる)により、論理上、ありえないほどの〈難解さ〉がそこに籠められようと、三十一音(57577)のさいご、五句目に至ってぴたりと統率されるのは、真の文法が和歌を下支えするという理由による」。つまり、「真の文法が働くのでなければ、詩はついに言語的世界でありえなくなる。現代短歌でも同じことでは?」と。
 寺山修司の『戦後詩』(紀伊國屋書店、1965)に触れられ、そこに引かれた藤富保男の詩集『正確な曖昧』(時間社、1961)を例にこう書かれています。「現代詩は〈論理的な文法〉の背後にある真の文法という聖域に手をつけてしまうかもしれない、という点で、危険な遊びかもしれない」と。この箇所については、藤井さんそこまでおっしゃるんだな、と感じましたし、その通りだな、とも思いました。開けてはいけない箱を開ける感じがありますね。

藤井 はい。蜂飼さん、やっぱりこういうところが引っ掛かるでしょう?(笑)

蜂飼 いわゆる現代詩はそうだとして、現代短歌についてはいかがでしょうか? 藤井さんが論じられている「真の文法」が働くかどうか、どのようにお考えでしょうか? 

藤井 第二十七章の終わりに、現代歌人の歌を並べてみました。一之関忠人、阿木津英、俵万智、水原紫苑、東直子、穂村弘、笹井宏之。古典じゃないから、そこには懸け詞そのものはないけど、三句目と四句目とかね、懸け詞に相当するあたりに、どこかに懸け詞を隠しているというか、潜んでいるというかね。『〈うた〉起源考』の最初のほうで懸け詞を論じたことと、この本の終わりのほうで現代の最先端の短歌を並べたこととは、私の中では向き合っているんですよね。それをどうするということでなく、向き合わせているんだ、というしかないんですけど。

  言いわけはもっと上手にするものよ(せいたかあわだち草を焼きつつ)
  東直子

 東さんの歌、こういうのに懸け詞はないわけだけど、古典からの眺めでいうと、懸け詞からの問題が含まれているんですよね。

  海で洗ったひまわりを贈る 未発見ビタミン的な笑顔のひとに
  穂村弘

 穂村さんの短歌、なに? と思うけど、現代はこういうのでゆくんだという主張があるわけでしょう。懸け詞じゃないけど。

  えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください
  笹井宏之

 笹井さんのこの短歌、これは漢字かな交じりの問題だと思うんですよ。それを扱ってくれている。「かな」で書いているでしょう。これを、どうしようというんでなく、笹井さんは投げ出しているんですね。問題と向き合っている、としか言いようがないんですね。

蜂飼 和歌に発する懸け詞も序詞もないけれど、なくて当たり前だけれど、〈うた〉の流れの上で、古典からの流れで見ると、それを隠し持っているということですか? 

藤井 現代歌人の歌を見ると、古典では懸け詞などで支えた深層が、現代はそうではない、という主張が、現代の歌人たちにはあるわけですね。

蜂飼 懸け詞的な世界を経て出てきた結果ということでしょうか? ただ、どんな短歌でも、藤井さんが繰り返し書かれているように「真の文法が下支えしている」というのはあるんですよね。ここに出された例でも言えると思います。現代詩の場合、「真の文法」に手をつけてしまうかもしれない、と。短歌の場合はどうでしょうか? 解体していくところがあるかどうか、そのあたりについて、どう思われますか?

藤井 それは、われわれは歌人じゃないからね、そこまでで止めていいと思うんですよ。こうして投げ出しておくわけです。「口語短歌、どうするの?」って、われわれからの問い掛けですよね。

蜂飼 はい。藤井さんはこう書かれています。「現代詩においても次世代詩が進行するから、両者のまがきは低くなって、いつか定型と非定型とだけが向き合う終末に至ろう」。すでにそうなっていると言えるのではないかとも思います。

藤井 そうですね。もうすでに、そうなっているでしょうね。それはもう、われわれが手をつけられない。詩の書き手としては、ここまでで止めるのが礼儀というかね。あとは歌人たちのほうで考えろ、とね。古典の方から見てきて、行きどまりです。

  卵巣を吊るにんげんのひとりにて風にもろもろの竹は声あぐ
  阿木津英

 阿木津さんのこの歌、いい作品と思うんです。私としては、現代詩人としては、これ投げ出しておくから、あとは歌人たち考えろ、と。今年は、岡井隆さんが亡くなって、前衛短歌のことを考える年ですね。前衛短歌は50~60年代です。その後、70年代の歌人たち、12人を第二十六章になんとか入れておこうと思って。

蜂飼 こう書かれています。「一九七〇年代前後は現代詩の動向と、どこかで交錯するところがあったように思われる。土俗ブームとも言われたテーマの探求が、しかしけっして重たくなるのでなく、むしろかろやかにそれらを幻想的な根拠として手探りする新詠たちだったような印象がある。違うだろうか」。

藤井 はい、そうです。松坂弘、辺見じゅん、平井弘、伊藤一彦、佐佐木幸綱、下村光男、奥井美紀、成瀬有、今野寿美、藤井常世、福島泰樹、小野興二郎。この歌人たちは、いまの現代歌人たちから見たら、一旦、忘れられてゆく、過去となる歌人たちだろうと思うんです。次世代は前の世代を否定しないと生きていけない。佐佐木幸綱ぐらいは若い人でも知っているだろうけど。ここに書いておかないと、消されてしまうであろう70年代短歌を、この一冊にしっかり書き入れておこうと考えたんです。下村光男とか成瀬有とか、いまに誰も知らなくなるかもしれないけど。なんとか、この本に入れておこうと思って。

蜂飼 網羅的と言うと語弊があるかもしれませんが、幅広く、いろいろな歌人を入れておこうと考えられたことが伝わってきます。