「うたわない〈うた〉」という視点

蜂飼 話は変わりますが、『〈うた〉起源考』の巻末には、初出についての一覧があります。単純な一覧ではなく、短い解説が付けられています。これがまた大変興味深いです。長年にわたって藤井さんが考えられてきたこと、各章が通ってきた道筋、ルート、ルーツが示されていますね。原稿によっては、改稿の結果「原型をとどめない」とまで書かれている章もあります。各章の内容が、繰り返し考察され、かたちを変えながら出来てきたことがよくわかります。ああも言える、こうも言えると、発展的に論じられてきたことの顕れだと感じます。

藤井 はい。ルート、ルーツね。忘れていることも多いから、思い出しているということもあります。

蜂飼 〈うた〉について、いま、この段階でこのような一冊のまとめ方をされたことについて伺えますか? どんな感触をお持ちでしょうか? 藤井さんにとって、現代詩を考えることと切り離せないと思います。

藤井 はい。このように一冊の本にするためには、たとえば、懸け詞と現代短歌とを向き合わせるとか、大きな構想が要りますよね。歌人たちは自分たちの作品のこと、詠う、って言いますよね。だけど、実際には、『万葉集』、『古今和歌集』、「うたわない〈うた〉」になっていったんです。歌謡などの「うたう〈うた〉」と「うたわない物語、散文的な世界」に対して、第三項としての〈うた〉という考え方が立てられたかと思っています。うたっちゃいけないところでうたうと、まずいことが起きる。だって、現代だって急にうたったら、どうしたの? って、おかしいなことになるでしょう?

蜂飼 そうですよね、あやしいですね(笑)。藤井さんの言葉によれば、「〈うた〉状態」ですね。

藤井 ええ、「〈うた〉状態」です。〈うた〉じたいが持っている危険と、おしゃべりが溢れかえっていて、うたうことから解放された、物語などの散文的世界。「うたわない〈うた〉」というのが文化として発展し、みんなで共有し、現代詩もその一部に。
 現代詩は、うたわないんだけど、どこかでリズムとか韻律の問題とか、それから翻訳詩の問題とかにも「うたわない〈うた〉」の世界は直結する。現代詩にも結びつく問題。「うたわない〈うた〉」が、もしかしたら大事な文化を、何千年かけて作ってきたのではないかと。ここから先の問題がある。次へ向かう。止まるんじゃなくて、生きる限りは、続くんだと思うんですね。

蜂飼 それは、この一冊を構想される段階で出てきたことでしょうか? 「うたわない〈うた〉」という考え方を立てられるな、と。

藤井 漠然とした流れは、考え続けてきましたけれども。『日本文学源流史』の中でも、そういう問題は、そこここに噴き出していると思いますね。なんで源流史の最後のほうで、モダン、近代詩のアヴァンギャルドの問題を扱ったりしているのか、とか。翻訳詩のことも、韻律を捨てちゃって「解」として翻訳する。韻律そのものは訳せないから。たとえば、山田美妙、左川ちかとかですね。彼らは結論としてというよりは、問題として出しているんだと思います。多くの人は、75調でやるのは当然だとか思って。自分たちの、日本近代詩を作るという夢としては持っていて、『新体詩抄』なんかがやってみせて、みんなが真似してね。それを、たとえば折口が説明体系の中に投げ込んでくれて、私もそれを追いかけて、という流れかな。