国冬本『源氏物語』をめぐって
蜂飼 最新の『源氏物語』研究、国冬本をめぐる研究について、伺えますか? 藤井さんがいま、とくに集中的にお考えになっている事柄についてです。
藤井 はい。国冬本は、鎌倉時代に住吉大社の神主だった津守国冬が書写したとされる本です。研究者の越野優子さんが『国冬本源氏物語論』(武蔵野書院、2016)を出してくれて。たとえば、「少女」巻ですが、国冬本には、六条院が出てこなくて二条京極邸なんです。紫式部は、書いているうちにどんどん行き詰まって。
蜂飼 どういう意味でしょうか?
藤井 書いていて、行き詰まったんだと思います。
蜂飼 紫式部がですか? それは藤井さんの説ですか?
藤井 紫式部がです。他に誰も言ってないと思います。一般に、『源氏物語』の研究者は、もちろんみんな知っているんですよ、国冬本は。だけど、こういうのは後で書き換えられたんだろうと、みんな考えているんです。
蜂飼 成立が別だ、ということでしょうか?
藤井 というか、一般的に『源氏物語』の研究者は、異本が出てくると、まずオリジナルがちゃんとあって、それをいいかげんな人が書き換えたっていう考え方をするので。
蜂飼 藤井さんのお考えでは、国冬本が元だということでしょうか?
藤井 大長編っていうのは、途中まで書いて、ちゃらにして、書き直してっていうふうに重層的に出来てゆくんじゃないですか? 国冬本は『源氏物語』の古い成立の時代の面影を覗かせているようです。だいたいの研究者は、紫式部は夫が死んで寂しいから書き始めたとか言うんだけど、私は、そんなことないだろう、と。私は、さっきも言ったけど、紫式部は15、6歳くらいから書いているだろうと。こんなこと、他の人は言っていないけどね。宇治十帖は数ヵ月で書いた、とかいう人もいるんだけど、書けないんじゃないですか。10年は掛かるでしょう。別の人が書いたっていう人もいるけど、それはないですよ。
蜂飼 紫式部が亡くなった後に別の人が書いた、という説もあるんですよね?
藤井 だけど、第一、亡くなる理由がないですよ。若死にしたっていう人もいるけど。私の説では、書き終わったのは50歳。ただ、目はあまり見えなくなったと思うんです。目が悪くなった。私と紫式部の付き合いでは、50歳でね。彼女だったら、まだ書けると思うんですけどね。でも、このへんでやめていいんじゃないか、とね。15歳から書いて、35年。原稿用紙に換算したら二千数百枚。雨夜の品定めとか、夕顔とか、あのへんは高校生くらいの年齢のときに書いたのを、いい歳になって書き直したんじゃないですか。35年は充分な時間です。ただ、途中で夫が亡くなって、そこから数年は書いていないかもしれない。だけど、その後、道長のところに就職するわけだから。20代は、ぽかっとあいているようで、まさに書き続けていたんだろう。彼女の結婚は28歳くらい。普通だったら、10代か20代初めには結婚ですか。だけど彼女は、そうせずに物語を書き続けている。そのうちに周りがうるさいから結婚して、子どもが生まれ、数年で夫は亡くなる。
何度もシュミレーションしています。これ、私は10年、20年くらいかけて考えてきた年表です。『源氏物語』を長く読んできた者としては、大長編があっというまに出来ると思わない。文章の苦心はしているし、道長のお屋敷に住み込んで、宮廷の生活を実際に知るわけです。実際の宮廷をそこで知る。周りには超一流の女性たちがいっぱいいて、喧嘩なんかもするわけでしょう? そういうことをしながら、物語の材料を手に入れて、書きたいことを書き続けて。岩波文庫、あの新しい文庫で、どこかで国冬本のこと、書いておこうと思いました。「桐壺」巻も面白いしね、国冬本は。
蜂飼 国冬本で、他の本と違う箇所があるのでしょうか?
藤井 はい、そうですね。たとえば「桐壺」巻。大島本に「宮」と書いてある箇所で、国冬本では「女御」と書かれている。弘徽殿女御のことです。宮というと、藤壺しかいないから、そう読まれてきましたが。国冬本だけが浮いているわけじゃなくて、関連する本文があることはあるんですよ。いちばん古いのは「源氏物語絵巻」。その詞書が、国冬本と似ているんです。平安時代から伝わる絵巻だからね、そういうところからも覗き込めるんじゃないかな、と。
研究者の伊藤鉄也さんは「鈴虫」巻を取り上げて研究している。大島本などにはない539字が国冬本にある。それで読むと、人物関係も一堂に会しているような。なんかそこで終わろうとしている感じがする。「鈴虫」巻あたりで閉じ目にしようとしている。539字のあるほうが古くて、そこから要らない数百字を削る。改稿、作り変え。書いているうちに変わってくることがありますよね。大長編にするためには、これ削ろう、と。
その後も、不思議なことがある。「夕霧」巻が真っ二つに割れていて、後半を「匂宮」巻にしている。なにやってんだ紫式部。国冬本は最近のホットな話題です。『源氏物語』研究、止まっていないのです。
蜂飼 今日は長時間にわたり貴重なお話をありがとうございました。
(2020年9月2日 藤井貞和氏邸にて)