空海の詩学

蜂飼 話は変わりますが、空海について、伺えますか? 『文鏡秘府論』について言及をされています。平安の詩学にとって、どういう位置付けのものであったか。また、仏教者としての立場と、詩人、詩家、文学者としての立場が「矛盾しない」ところが驚嘆させられると、書いていらっしゃいますが、この点について、いかがでしょうか? いま、何か空海についてのお考えはありますか? 

藤井 そうですよね、大きな人。空海の漢詩は、他の人たちとまるで規模が違う。その詩論も、啓蒙というか、新しい時代、文学とか文化とか、リードしたいという気持ちがあったんでしょう。詩の世界をリードすることで文化とか文学を切り拓きたいっていうことが感じられますね。唐へ渡って、そこで学んで。

蜂飼 最澄、菅原清公などと一緒に渡ったんですよね。

藤井 みんな、ちゃんと帰ってきたんだよね(笑)。海外から帰ってくると張り切るよね。現代でも、そうでしょう? 空海も、日本に戻って新たな仏教を広めようと。高野山を開いたわけですよね。最澄は比叡山で。

蜂飼 仏教の中でも、なぜ密教を選んでいるか、「動機」がよくわからないと、藤井さんは書かれています。そのことと、詩論、詩学を成立させていくことはどう関係しているんでしょうか? 「声の譜、調べの声、七あるいは八種の韻、四声の論、十七勢、十四例、六義、十体、八階、六志、二十九種の対、文三十種の病累、十種の疾、論文意、論対属など」にわたる「詩学、詩論の百科全書」であり、「これを越えるか同等かの著述は、アリストテレスの『詩学』しか思い浮かばない」とお書きになっている『文鏡秘府論』ですが、「儒学や学問に没頭した以来の文章彫琢に淫する性格が、この詩学全書に赴かせたということになろうか」と、考察の方向性を示されています。

藤井 そこは、ぜひ考えてほしい。さっきも言ったように、啓蒙といった観点があったとは思います。詩学を築こうっていうこともあったと思う。空海が新しい仏教を開くことと、詩の世界を拓くことは、深く関連していますね。

蜂飼 「空海がどのようにアジアの詩論者たちと出会い、どのように詩論をひらいてアジアと向き合ったか、『文鏡秘府論』じたいが語ってやまない」と、藤井さんは書かれています。空海によって初めて渡来した本が多いという点にも触れられています。「詩の方法における平安詩の成立を最大の目的としていた、とぜひ言いたい」と。
 『詩経』大序に、「詩は志のゆくところ」とあります。詩について論じられるとき、必ず引用される箇所です。藤井さんは「志が儒教と結合するという側面が何等かの都合で欠落してしまえば、志は儒学的な名分から解放されるかもしれない。詩じたいが目的化される可能性はつねに持っていると、注意しておきたいように思う」と書かれています。これもまた大きな問題で、「志」とは何か、ですね。その中身は「ペンディングされている」のではないかと書かれていますが、このことに関して、いかがでしょうか? 

藤井 はい。一般にはね、詩は志、儒教的というか、奈良時代から平安時代、一連の流れをそれで説明するというのがあるけど、空海って、そういうところには収まらないだろう。もっと新しい時代を切り拓こうとしたんでしょうね。その時代、官人は官吏登用試験があって、そのためには儒学を学んで、漢詩も作れないといけないっていうのがあって。そんな中で、詩を作るってどういうことか、と空海としては考えただろうと。

蜂飼 短歌57577は「倭詩」と、『万葉集』巻17の3967歌の詞書に出てきます。詩というのは、本来、古典中国詩の意味で、端的には『詩経』そのものが詩だったと言えます。「倭詩」においても、漢詩と同様に「述意の機能を果たす在り方」があると。

藤井 中国の詩をどう受け取るか、どうしてもずれがあるから、空海は六朝時代から唐代にかけての詩を持って来るけれど、時代はもう宋ですね。

蜂飼 宋の話が出ましたが、日本社会でも、その時代に女性たちによって書かれた、宋詞を思わせるような自由律による詩にも触れられていますね。お茶を飲むことをめぐる詩など。

藤井 はい、惟宗氏というのは女性です。『経国集』に入っている。面白いですよね。3音、5音、7音、あるいは6音を配した、自由な感じの律。硬直した文学史だとあまり取り上げられないんだけど。自由詩っぽい、まさに宋詞に近い。平安時代初期はぽっかりあいた、自由な空間だったと私は思いますね。『万葉集』の終わりの大伴家持とかは頑張ったけど、政治にまきこまれて挫折してゆく。そのあと、都は平城京から平安京へ移っちゃう。新しく都が作られつつある時代。9世紀代の漢詩人たちの活躍って、本当に感心する。島田忠臣、紀長谷雄そして菅原道真といった、もの凄い連中が活躍するなかに、女性詩人たちも出てくるんだから。