本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第22号』に収録された巻頭座談会を再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。
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対話とは
河野 そうですね。最初にお話しした点にも関わりますが、哲学対話とか「哲学」という形容詞を入れた方が宣伝になるし、形を作りやすいですが、「対話」自体が持つ力の方が「哲学」よりも強いのではないかなと思ったりするんですよね。私自身は、臨床的対話、例えばオープンダイアローグとか「べてるの家」の当事者研究とかいった要素を哲学対話のなかに取り入れようとしています。しっかり方法論的に取り入れているというよりも、色々な要素を何となく真似しているだけなのですが、やっぱりオープンダイアローグとか「べてるの家」における対話がもっている治癒力のすごさというか、「対話するだけで、どうしてこういうことが起こるんだろう」というほど、対話の威力は謎なんですよね。哲学というよりも、対話の持つ強さに魅力を感じています。実を言うと、哲学とは対話の派生物で、哲学があって対話してるのではなくて、対話があるからその派生物として哲学はできてるのではないかと思えてならないです。つまり対話の方が根源的じゃないかということですね。哲学を専門としている人は、何か「哲学は万学の女王だ」みたいなことをちょっとみんな思っているかもしれないけども、私の感じとしては逆で、対話の持っている根源的なコミュニケーションを引き起こす力に、哲学をはじめとした知は完全に依存していると思います。さっき戸谷さん、齋藤さん、永井さんもおっしゃっていましたけど、対話の身体性も含めて、そのコミュニケーションのもっている深さというのが哲学を可能にしているのであって、その逆ではないと思っています。臨床的対話も、その同じコミュニケーションの根源から人を治癒する力とか、人を結び付けることが生まれてきます。これは先ほど齋藤さんも永井さんもおっしゃっていたと思います。また、戸谷先生も、突然やって来た人たちが一緒になるということが起こるとおっしゃったと思いますが、この「人を結び付ける力」というのが対話の根本にある。その派生形態としてシチズンシップとかが可能となるし、哲学もある種の根源的な人の結びつきの一つの表現にすぎないのだと思います。ですから、私は順序が逆で、哲学対話でなくて「対話」で良いと思っているんですよね。ちゃんと対話するとそこから哲学が生まれてくるのだと思っています。
渡名喜 なるほど。今おっしゃっていることはまさに納得できます。ただ、いざ「対話をしましょう」というとき、今河野先生がおっしゃったような形で対話するのはなかなか難しくはないでしょうか。私としては、哲学対話は、非常に対話自体がしやすくなるようなセッティングを備えているという印象を非常に強くもっています。対話の際に遵守すべきルールや方針が明確に提示されているのが一つです。これは私自身が学生のときの哲学の授業の経験ですが、「対話が重要だ」っておっしゃる先生がいました。しかし、彼は何をやったかっていうと、「はい」と突然マイクを向けてきた。大教室で適当にランダムにあてた学生にマイクを向けて、「対話をしろ」と。ただ何か発言するとそれを否定するわけなんですけど(笑)。「それは対話じゃないだろ」って私はその時非常に感じました。ですから、今先生がおっしゃったことは全くその通りだと思うんですけど、逆に「哲学対話」は方法論的なところで、対話そのものを用意する作用があるんじゃないかと感じています。
河野 おっしゃる通りだとは思うんですけれども、一方で、書いたものを読むということも、その経験が豊かな人は、対話もさせても深さがある感じがするんですよね。「読む」という、「書字」というものの持っている効果っていうのはどこから来るのか、何がそうさせているのか、というのはよくわからないです。最近はちょっとアフリカの哲学に関心があるんですけど、アフリカの人たちってものすごい話好きなんですよね。議論好きランキングみたいなのが世界にはあると思うんですけど、私はインド人かアフリカ人がチャンピオンなのではないかと思っています。アメリカ人がやや日本人よりも上で、日本とか東アジアの儒教圏の人たちが最もボトムに来るであろうというのが私の実感なんです。アフリカ人やインド人は、どうしてああいうふうにずっと議論できるのか、あの粘り強さっていうのが、なんというか、書き言葉に匹敵するような粘り強さなんですよね。そこを私たちは何もわかってないというか、書くことも含めて、「伝え合う」っていうことの持っている根源的な力についてまだ全然わかっていないと思います。その「伝え合い」から思考とかも出て来るのではと思います。