本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第22号』に収録された巻頭座談会を再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

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ファシリテーターの役割

永井 私が最初にマジョリティっていうふうにお伝えしたのは、もちろん今の話にも重なりはしますが、想定してたのは次のような場面です。例えば、実際にあったというわけではないですけど、「人を好きになるってどういうこと?」について話す時に、異性愛を前提にした議論がずっと進んでそれで終わってしまうっていうようなことって全然あるわけですよね。その場に、セクシャルマイノリティの参加者がいたときに、「あ、この場は自分の場じゃなかったな」っていうことをただ痛感して終わることって、往々にしてあることだと思っています。そこで、自分の当事者性を出さないと、みんなが前提としている場が崩れない、みたいなこともある。そうすると、本人がすごく気負い過ぎちゃって、「あ、これ自分がカミングアウトしなきゃいけないのかな」とか。でもあまりにもこのままだと異性愛が問題になり過ぎちゃって、このままだとどうだろうな、でもここに「そういう仕方じゃない愛もありますよね」って言った時に、「え、何で?」って問われたらどう答えよう、とか、いろいろ考えてしまう場って多いと思うんですよ。もっと言えば「異性愛しか愛ではない、それ以外は悪である」のような差別的な考えが共有されて進んでしまうこともある。じゃあ、そうではない場をデザインするとなれば、もちろん参加者の意識もそうですけども、教育の場だったらファシリテーター、教員が本当に注意しなきゃいけないところでもある。だからといって、もちろんそこに正解はないですよね。「どんどんオープンに話そうよ」としてしまうのは一つの悪手だし、「当事者の意見聞かせて」と本人に無理やり話させてしまうこともあるかもしれない。こういう時にどういう場であるべきなのかっていうのは、文脈にも場所にも誰が参加しているかにも依存して、「これだ」っていうものもないし、それぞれが苦しんでいるところなんじゃないかと思っています。

渡名喜 そうするとやはりファシリテーターの役割が重要になりますね。今おっしゃったような場をデザインすることができるようになるためには、どうしたらいいのでしょう。やっぱりファシリテーターはたくさんの経験を積むということなのでしょうか。

永井 本当に難しいですよね。哲学対話のファシリテーターを考えるとき、私はいつも知識とスキルと態度に分けて考えています。よく言われるのは、知識の部分です。「哲学対話のファシリテーターをするのに哲学史を勉強した方がいいでしょうか」とよく聞かれますよね。もう一つは、スキルで、概念をうまく整理できるとか、論理的思考ができるとか、そうしたスキルをどう訓練するか、議論になる。これら二つは重要ではありますが、哲学対話のファシリテーターを考えるときには、わたしは「態度」を一番重要視しています。それは、単純さに飛びつかず、わからなさや複雑さに知的に耐えられるとか、探求の場が、考えるためにみんなが大丈夫な場であるかについて常に緊張し続けられるとか、そういったことです。ケアの態度ですよね。誰かの考えをケアしたり、真理に対してもケアしている態度を持ち続けるようなことです。このあたり、齋藤さんはどういうこと考えていらっしゃるのか聞きたいなと思いますがいかがでしょう。

齋藤 確かに今おっしゃったところだと、何というか勘所みたいな、すごくあやふやな所になりますよね。学生に例えば「対話が進まないのはしゃべらない人がいるからだ。じゃあしゃべらない人の意見聞いてみましょう」って言ったとして、これってやっぱりすごく圧力になることだと思うんですよね。でも、「何でしゃべらないんだろう」みたいな疑問自体は出てくる。それに対して、「いや、僕はしゃべりたくないんだ」っていうような意見が、直接にはしゃべれなくても、たくさんオンラインでの回答フォームには寄せられてくる。もちろん匿名扱いにしますが、そういう回答がたくさん出て来てますよ、っていうこと自体を開示するだけでも意味があると思います。強制的に対話の場を開くというか、対話の場で何が問題になってるのかを、直接的な対話の場以外で出てきた意見からみんなでちょっと考えてみようということです。こういうやり方は、先ほど永井さんが言っていた真理のケアに重なるように思います。対話の場以外で出てきた意見ともバランスを取りながら、「じゃあこの問題、こんなふうに考えてみましょう、こういうところもあるかもしれない、ああいう問題も出てくるかもしれない」みたいなところを指摘するというのは、ファシリテーターが圧力から思考を守る部分と、それと同時に思考がなお考えるべき問いを投げかける部分とを常に同時に鋭く意識しておかなければならないところだと思います。その点では僕自身も永井さんがおっしゃる通りだと感じています。