哲学対話の課題


渡名喜 それではここらで、先ほど提示させていただいた、哲学対話の課題に移りたいと思います。もちろんこれは今何か問題があると私自身が考えているわけではなくて、皆さんがどういうふうに捉えてらっしゃるのかということを伺いたくて、テーマに設定させていただきました。齋藤先生、いかがでしょう。もし哲学対話の課題としてお考えのことがあればお聞かせください。

齋藤 おそらく一つには対話それ自体、対話の場をどのようにして進めていくかという問題と、もう一つは対話と哲学との関連、あるいはその周辺との関連の問題という、二つの問題があるように思います。まずは、対話を進めていくうえでの問題って結構さまざまあると思うんですが、例えばきわめて危険な考え方、許しがたい考え方のようなものが出てくるケースです。一方的に何か自分の考えだけを述べるだけでなくて、ある種の差別的な考え方とかが、発言は自由だからということで出てくる。こういう時にどう対処していくべきか、そういう問題が難しいなと思うときがあります。そういう発言に対して、ルールに則ってない場合は止めるっていうこともできますけれども、それ以外の場合にどう対処していくのか、対話の中でそれを回収していくべきなのか、あるいはそうではないのかは悩ましいところです。この問題については、他の皆さんにもちょっと聞きたいところです。
 それから、僕自身が今関心を持っているのは、そういう対話の進め方とか場の開き方ということと同時に、まさに伝統的な哲学と対話との関係には、先ほど河野先生がおっしゃっていたように、まだまだ考えるべき点があるんじゃないかなと思っています。これは以前に河野先生とご一緒したときに話題になったんですが、対話の形は、プラトンの対話篇のように、まさに哲学の始まりにあるんだけれど、伝統的な哲学のなかにも対話のさまざまな形がありうるだろう、と。例えば往復書簡のようなものだって、対話の形であったわけだし、そういうものも考慮に入れていくと、結構伝統的な哲学と哲学対話が接続できるルートっていうのは山ほどある。実際、渡名喜さんのご研究されているレヴィナスもそうですし、対話の思想って伝統的な哲学者のいろんな思想のなかに散りばめられているはずなのに、なかなかそれが浮かび上がってこない。むしろ伝統的な哲学とは距離を置こうとする傾向も、これまでの哲学対話の活動のなかでは結構あったんじゃないのかなと思っています。別に伝統的な哲学だけを大事にしろという訳ではないんですけれども、過去にも大事な遺産や、ヒントになりそうなものはたくさんあるので、そういうものにどんどん目を向けていくことも可能なんじゃないのか、そういう作業はできないだろうかとは考えてます。

渡名喜 どうもありがとうございます。今の点、いわゆる「哲学」っていうのと、哲学対話との関係っていうのは私自身の伺いたかったところであります。戸谷先生はいかがでしょうか。

戸谷 私からは二点考えてきたことがあって、一つ目は、これは本当に日々悩んでいることなのでぜひ先生方のご意見を伺いたいなと思っているところなんですが、哲学対話をいかに評価するかっていうことです。例えば大学の授業のなかに哲学対話を取り入れようとすると、不可避にシラバスを書かなければならず、到達目標とか、評価方法を書かないといけないわけです。そこに哲学対話を組み込んでいったとき、どうやって学生の成長を評価するのか。例えばパッと思いつくのは、積極的に発言できているとか、他者を理解できているとかだと思うんですけど、まず他者を理解できているかどうかは評価できないですし、積極的に発言しているっていうのは、発言量で見れば評価できますけど、じゃあ沈黙しているのが良くないことかと言われたら、そうでもないわけですよね。別に最初から最後まで黙って参加していてもいいわけなので。実際に哲学対話の評価方法としては、車座になってもらって後ろに一人ずつ立って、目の前にいる人がしゃべっている様子を評価するという手法もあるらしいんですけど、個人的な感覚としては、教育のなかで哲学対話を評価すること自体が自由に思考することを阻むような気がしています。なので、大学の授業のなかに哲学対話を組み込んでいくときに、それをいかに評価する手法があるのか、というのは個人的には思います。しかも、このことを疑問に思った時点で、「そもそも教育って評価しないといけないのか?」ということにも当然行き当たるわけですよね。しかしシラバスは書かなきゃいけないみたいな葛藤もあって、なんというか、何重の自己欺瞞みたいなものに日々苦しんでいるんですが、そのあたりが課題だなと思っているところが一つです。
 以上は学校のなかの話ですが、もう一つは、社会で哲学カフェをしていくときに、今はオンラインでやることがすごい多いんですけど、そのときに私は基本的にはカメラはオンでもオフでも構わないっていうふうに申し上げていて、参加者の方に委ねていいます。カメラのオンオフにかかわらずかもしれませんが、その場にいるのがどういう人物かわからないというか、相手が自分の言葉をどう受け取るかということがやればやるほどわからなくなっていて、怖くて何も発言できなくなっていく自分がいるんですね。例えばいま渡名喜先生は、ご自宅っぽいところにいらしているんだろうなと思っていますが、もしかしたら、渡名喜先生のすぐ近くに誰かほかの人がいるかもしれないですよね。例えばお子さんや配偶者の方がいらっしゃるかもしれなくて、そういう可能性を考えていくと、迂闊な発言ができなくなっていく。言葉選びに慎重になり過ぎて、なかなか、どんなことを言ったらいいかわからなくなって、結果的に黙っちゃうみたいなことが、僕は結構あります。カメラがオンであればそれでもまだ推測ができるんですけど、例えば、今このzoomの画面上に映っている「SのiPhone」さんなどですと、もう全くどういう人物かわからないわけですよね。僕の言葉をどう受け取るかもわからない、そこからどんな印象を受けるかもわからない。そうすると、すごく平板なことをつい言ってしまうというか。実際に、オンラインの哲学対話ですと、スタートした直後から前半戦にかけて、ちょっと平板で当たり障りのない話が行き交ってしまうことが多いなぁ、という印象があります。オンライン上で相手の匿名性が高くなっている状態で、どうやって深い対話をしていくのかっていうのも、個人的には課題だなと思っているところですね。以上の二点ですね。

渡名喜 ありがとうございました。僕はたまにこの足下に赤ん坊がいて、子守をしながら足下でバウンサーという揺れる椅子を揺らしながらオンラインで話すことがあるんです。今日はいませんが(笑)。おっしゃるとおり、オンラインか対面かっていうのは哲学対話に限らず我々この2年くらい授業の中でひしひしと感じていることですよね。永井先生いかがでしょうか。

永井 そうですね。齋藤さんがおっしゃったところにも重なるんですけれども、哲学対話がマジョリティのためになってしまうことはあると思います。私の「生き生きとした探求」が誰かを踏みつけた上でなされている可能性を常に持つのが哲学対話なので、そこが本当に難しいところだと思っています。哲学は探求の場ではありながら、それはちゃんと対話ってものに支えられてて、「みんな」で真理を探究しなきゃいけない。文脈は異なりますが、「みんなで達成するか、さもなくば達成しないか」という好きな言葉があるんですが、近いものを感じるんですよね。誰か特定の四人くらいが、誰かを踏みつけながらすごく生き生きと哲学して、「いや、今日深まった」とか言って帰っていっても、全然それは意味がない。「これは哲学だからいいんだよ」と開き直ってしまわないように、どうやってそういう場をつくっていけるのか、それは私自身の課題でもあります。あるいは、哲学対話っていうものを世に発信する機会も多いので、その時にある種の難しさ、危険性っていうものをどうやって損ねないままに伝えることができるのかっていうことには悩む日々です。

渡名喜 今のお話は私が哲学対話とは違う文脈の中で考えていたことにもつながるかもしれません。まさにプラトンの『国家篇』の一番最初のところで、ポレマルコスがソクラテスに「議論に参加したくない人にどうやって説得しますか?」と問います。つまり「哲学対話やります」ということに対し参加してくださった方々は、それに最初から「参加する」って言ってくださって参加すると思うんですけど、「いや、参加したくない」っていう人って、特に大学では結構いると思うんですね。哲学対話の授業に来る人たちは参加したいとは思っている。もしかすると、参加したくないっていう人でも、オンラインだったら参加できるという人もいるかもしれない。そういう議論に参加しにくい方をどう対話に取り込むか、あるいはそもそも取り込むべきなのか否かも気になっています。