父の存在の希薄さ

福嶋 逆に父はどうでしょう。「ブイになった男」の男性はプカプカ浮いているだけで、あまりに無力です。

小野 僕の小説にはろくな父親がいないですよね。『九年前の祈り』でも、息子の「希敏(けびん)」のお父さんより、その友達のジャックの方がいいやつです。

福嶋 実父であるフレデリックは、子どもをつくって蒸発して終わりですよね。父の希薄さは小野文学の一つの特徴だと思います。これから父が復活する可能性はありますか。

小野 そう言われてみると、今書いている小説にも、先ほど話した新作の戯曲にも、父的な存在はないです。父親はほとんど役を果たしていないですね。戯曲に出てくるのも、おじいとおばあです。でも、おばあがしゃべるんですよ。おじいは「あー」とか「うー」とかしか言わない。

福嶋 物語の担い手にはなれない。

小野 そうです。一言もしゃべらなくて、おばあが「あなた、こういうこと言っているのね」と代わりに語るんです。

福嶋 思えば、村上春樹や高橋源一郎もやはり失語症的な状態からスタートしています。積極的に語るべき主題がないという、一度語りから絶縁されてしまった状態に出発点がある。すると、小野さんも日本のある時期からの男性作家の系譜を継いでいらっしゃるのではないでしょうか。

小野 そんなことは考えたこともなかったですが、そうかもしれないですね。

福嶋 『森のはずれで』はどういう契機で書かれたんですか。これは小野さんにしては珍しく、父親を中心に描いています。でも、まったく役に立たない。

小野 たしかに、失敗した父性ですよね。父親が家族の中心になるという物語はうそくさいと感じているんでしょうね。

福嶋 なるほど。しかし、小野さんご自身は生物学的には5人のお子さんの父親ですよね(笑)。

小野 お父さんとして一生懸命働いて生活しています(笑)。『森のはずれで』は、珍しく自分に近い人物が主人公になっています。フランスで経験したことを直接的に作品に生かしたかったんです。それで、語り手は僕に近い人がいいんじゃないかと。

福嶋 その選択は小野さんにしては珍しいですね。小野さんは自分の生まれた土地に立脚しているにもかかわらず、私小説的なスタイルは一度切断して書かれていると思うのですが。

小野 そうですね。『森のはずれで』もまったく私小説的ではないですね。一緒に暮らす父親と息子がでてきますが、あの当時僕には息子はいませんでしたし。私小説的なものに対するある種の苦手意識は昔からあります。

福嶋 さっき言った「帰還」のモチーフということでは、小野さんは中上健次よりも大江健三郎に近いと思うんです。しかし、大江さんも中上さんもともに私小説的な風土を利用している書き手ですよね。かなり屈折した書き方ではありますが。

小野 J.M.クッツェーが、「あらゆる文章は自伝的だ」ということを言っていたと思います。そうだとしたら、別に私小説的に書かなくても、勝手に自伝になってしまう。書き手と語り手が等身大で、自分がほぼ経験したようなことをそのまま書きつつ、微妙に細部を変えてフィクション化するという書き方もありますよね。そういう手法を試してみたいと思う日が来るかもしれませんが、今のところは考えていません。

英訳された『獅子渡り鼻』

福嶋 近年の作品で言うと、僕は『獅子渡り鼻』が重要だと思っています。この小説は基本的な視点が主人公の「尊」という少年にある一方で、ところどころメタレベルから土地の声が響いてきますよね。尊を庇護するようなおおらかな語り口が、底流にずっと響いている。つまり、子どもと大人の二重の声を響かせている実験的な小説です。この作品はちょうど英訳も出版されたばかりですので、是非お話を聞かせてください。

小野 これは、もともとお母さんの視点から書こうとしていました。言葉は悪いけれど、「かわいそうな子ども」の話を書きたいとずっと思っていました。僕の小説は、『にぎやかな湾に背負われた船』も『水に埋もれる墓』も女性が主人公です。初めは、子どもをネグレクトする母親の観点から書けるかなと思って試したけれど、あまりうまくいかなかった。
僕は、この傷ついた子どもの内面に触れるのが怖かったんですね。彼の中に入って、彼が何かを見て感じたことをそのまま書くことができるのか。一人称で彼の内面に入りきることはできないし、三人称であっても、彼の内面を自由に描写するような書き方をすることにはためらいがあった。だから、書き手としては、この少年の中に完全には入りきることはなくて、少し距離を置いて、彼が感じたり考えていることを見守る視点にしたんです。そうすれば、この少年に対して不当な仕打ちをしなくていい。つまり、登場人物だからといって、書き手が好き勝手に動かしていいわけではない。登場人物も、現実の存在と同じ人間存在ですから。

福嶋 『獅子渡り鼻』では子どもから見た世界が、とても上手に切り取られています。しかも、神話的なコスモスに包摂され救済されて終わりというハッピーエンドではなく、最後まで少年の不安や傷は残ったままなんですね。しかし、その繊細な少年の隣には「いいんじゃが、いいんじゃが」という幽霊的な声が優しく響いているわけです。非常に完成度が高い作品です。
英訳を少し読んでみたところ、原文では間接話法で書いているところも、直接話法の台詞にしているところがありますよね。外国語に翻訳する上では、日本語の原作のもつ三人称と一人称の揺れ動きは、なかなか表現しづらいのでしょうか。

小野 僕の場合、文体をつくるうえでは、英語とかフランス語で小説を読む体験がかなり大きな役割を果たしていると感じています。『獅子渡り鼻』にも、フランス語や英語の小説の自由間接話法を意識していたところもあります。それが今度、英語にすると直接話法になっているのは面白いですよね。

福嶋 クリアで読みやすい訳文ですよね。ただ、原文でやっている文体的な実験とは少し違うものになっています。

小野 そこが翻訳の難しさですよね。文体的な技巧を伝えるよりは、むしろその作品世界が持っている、ある種不穏な雰囲気を伝えることを、訳者は選択したのでしょう。アンガス・ターヴィルさんという素晴らしい翻訳者で、僕は全面的に信頼しています。

福嶋 内容を伝えるために、形式的な先鋭さを少し丸くした感じですね。

小野 例えば、マリー・ンディアイのフランス語は、きわめて洗練されており、挑戦しているところも多いので、彼女の作品を翻訳したとき(『ロジー・カルプ』[2001]2010、早川書房)は、相当難しいと思いました。
これに関して、英米文学者で翻訳者の柴田元幸先生のお話をうかがっていて、なるほどと思ったことがあります。原文の難解さをそのまま日本語に100%移し替えると、150%ぐらい難しく感じるものになってしまうから、日本語としては難度を少し減じるようにしないと読めるものにならない、と。今回の英訳は、作品の持っている本質的な部分を訳者なりに抽出したのではないでしょうか。

福嶋 ええ。悪い意味ではなく、健康的な訳文だと思います。