本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第19号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

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「浦」の世界と、難民・移民。2つのテーマをつなげる

小野 長年にわたって、クロードとエレーヌは難民や移民の支援をとても自然な形でやっていた。クロードの家には、今も認定されない難民の人がいます(その後、認定されました)。この二人に間近で接したことは、僕にとってものすごく大切な経験です。
そうやって自分がクロードのところ、マグノリアの庭のあるあの家で受け取ったものを作品の形にしたくて、ヨーロッパと思われる場所を舞台にした作品を書きました。ちょうどクロードとエレーヌが、スーダンからやって来た男性が難民として認定されるよう支援していた頃ですね。それが、先ほど福嶋さんが中期として挙げられた3つの作品です。これに対する関心は今も続いています。

福嶋 『線路と川と母のまじわるところ』のテーマはまさにそうですね。近年もコンゴ難民のレポート(「東京スカイツリーの麓で:あるコンゴ人難民の受難の物語」)を『新潮』に書かれていました。

小野 もともとは「浦」のことを書いていたけれど、フランスに行くことによって、そしてクロードとエレーヌと出会うことによって、難民と呼ばれる人たちのことを強く意識することになりました。クロード自身、ショア(ナチスによるユダヤ人虐殺)などの大量虐殺という恐ろしい現実に文学がどう応答してきたかについて考察し、書いてきた人です。それを受けて、自分も文学を通してそうした問題にどう応答できるかを考えるようになった。

福嶋 そうなると、第3期の小野さんは、その2つのモチーフが融合しつつある状態なのでしょうね。

小野 そうですね。

福嶋 『残された者たち』には「ガイコツジン」と呼ばれる存在が出てきますが、そこにも難民性が感じられます。「浦」が一種の「アジール」(避難所)として文学的に再構築されている。初期の『にぎやかな湾に背負われた船』でもすでに朝鮮人を受け入れた土地として「浦」が描かれていたわけですが、『残された者たち』ではそれがさらに変形されて、「浦」が傷を負った者たちを受け入れるアジールになっていくわけですね。

小野 「浦」というモチーフと、難民や移民という故郷喪失のモチーフの融合は続いていくでしょうね。今書いている小説も、自分の中ではこの2つの問題がひとつになればいいと思って書いています。それから、この9月に刊行されたのですが、戯曲を書いたんです(『ヨロコビ・ムカエル?』2018、白水社)。

福嶋 それは初耳です。

小野 2018年の秋に大分県で開催される国民文化祭のためのものです。オープニングステージの舞台作品の脚本を依頼されたのです。演出は、大分出身で、スーパー歌舞伎『ONE PIECE』の洋舞のパートの振り付けを担当するなど振付家として活躍している穴井豪さんです。
その作品は、小さな場所がどのように他者、異質なものを受け入れられるかを、少し抽象的な形で書いた作品です。福嶋さんのお見立て通りで、「浦」のような小さな場所にどこか得体の知れないものがやって来るお話です。ある村に、車椅子に乗った老人と女の子がやって来る。村人たちは戸惑います。そこに自分が何者かわからない鬼の面をかぶった1人の男も加わって……。出版するには戯曲だけだと短いので、少し長めのエッセイを書いて添え、ホスピタリティについて、つまり他者を、自分たちの共同体とは異質なものを歓待するとはどういうことかについて書きました。ですから、今後しばらくは、「浦」の世界と、難民や移民との出会いや交差が、そして、ある傷を負った人たちを小さな場所がどのように受け入れ排除するのかが、ひとつの主題になっていくような気がします。