夜と「浦」にあるアモルファスな世界

福嶋 小野さんの作品はアモルファス(不定形)な世界というか、形がないことへのこだわりが底流にあると思うんです。『夜よりも大きい』はその典型ですね。
大分生まれの建築家の磯崎新氏は、幾何学的な建築に惹かれる理由として、大分の垂直的に降り注いでくる光が関係していると、かつて大分の新聞に書いていました(その彼が「陰翳礼讃」派でもあるのは面白いですが)。しかし同じ大分でも、小野さんの小説は、光の生み出す明晰な世界よりは、むしろ夜の闇を切開して聞こえてくるような声に耳をそばだてるストーリーになっています。この夜に対するこだわりは、どのあたりから来ているのでしょうか。

小野 僕はどちらかというと夜は苦手で、だいたい暗くなったらすぐ寝てしまいたいほうです(笑)。基本的に朝、仕事をしますし、明らかに光がある時間帯のほうが好きなんですよね。

福嶋 なるほど。とはいえ『夜よりも大きい』の延長線上にある『残された者たち』でも夜の場面が非常に重要ですよね。形のないものに言葉を与えようとする欲動があるのではないでしょうか。

小野 そうですね。それはそのとおりです。

福嶋 山や陸よりも、むしろ海のたゆたう感じに近いというか……。

小野 「浦」もそうですが、リアス式海岸というのは海と陸がたがいを奪い合うというか、譲り合うというか、とにかく混じっている感じなんです。その感触はクレオールに興味を持ったことにもつながっていると思います。クレオール化はいろんなものが混じる現象ですから、ある意味アモルファスじゃないですか。

福嶋 それは面白いですね。初期の『水に埋もれる墓』を読んで僕が印象的だったのは、「浦」は幾つもあるという話です。「浦」は単数ではないんですね。

小野 「浦たち」ですね。

福嶋 リアス式海岸で、小さな「浦」がたくさんあるという複数性が、小野文学の源泉になっているのではないでしょうか。その複数の「浦」の中に夜もたたみ込まれている。

小野 「たたみ込まれている」という表現はいいですね。例えば、朝、こっちの山は陰になって暗いのに、向こうの山は光輝いている。それが夕方に逆転している。光と影が常に場所を奪い合い、譲り合いながら共存している状態です。穏やかに光に包まれている海も、ちょっと潜ったらもう怖い。そうすると、海が夜なんじゃないかと思いますね。夜も海から出てくる感じです。

福嶋 なるほど。闇を生み出す海ですね。

小野 あるいは、夜が岬をつたって海に潜って帰っていくというような。僕の小説に海がよく出てくるのは、その夜とつながっているんだと思います。

前近代的な世界と近代のモビリティ

福嶋 折口信夫の『海やまのあひだ』(1925)は熊野旅行がもとになった詩集で、山がそのまま海に向かって落ち込んでいくような地形を表題にしたものです。折口は恐らくそれを日本そのものの縮図として捉えているわけですね。日本的と言っていいかはわかりませんが、そういった地形と文学の関係はあるとお考えでしょうか。

小野 あるかもしれません。大分にある国東半島は、真ん中に山があって、そこからいくつもの谷筋が海まで広がっていき、そのそれぞれに集落があるんです。それらをつなぐためにトンネルを掘らなくちゃいけない。あの辺りを車で走ると、トンネルに入って暗くなり、そこから出ると、降りそそぐ光で明るくなり、またトンネルが現われて暗くなる、その繰り返しです。光と闇が交互に、しかも連続的に現れるんです。

福嶋 明暗がまだら状になっているということですね。

小野 県南の僕の故郷にも、それと近いところがあるかもしれません。リアス式海岸で、カーブを曲がったここは日が当たっているけれども、こっちに来るともう暗くなって、また光の中に入っていく。同じ海でも、こっちはキラキラキラ光っているのに、あっちは暗く陰っている。光と影のコントラストが強烈です。そのことは生活の中で非常に強く感じていました。

福嶋 地形そのものもさまざまな技術や産業によってつくられるわけですね。印象的なことに、小野さんの小説には乗り物がたくさん出てきます。『マイクロバス』はまさにそうですし、『九年前の祈り』も飛行機の移動が物語の核になっている。小野さんは一見すると前近代的な世界を書いているようでいて、そこに近代的な乗り物がヒュッと入ってくるんですね。

小野 今では、ひとつの「浦」からとなりの「浦」まで、歩いていける距離でも車を使うのが当たり前になっているように、「浦」を描くときに、車のない生活は考えられません。そういえば、この間書いた戯曲には車椅子に乗った人が出てきます。

福嶋 産業化した社会のつくり出した光と闇の世界が、神話的なものとも共存するわけですね。

小野 なるほど。福嶋さんの言うとおりで、神話的なものと産業的なものは今や不可分です。もはや単純に自然礼賛もできないし、我々の生活もテクノロジーと抜きがたく結びついちゃっていますからね。僕の書いているものの中には、自動車、船、列車、飛行機と、たしかに移動のためのテクノロジーが本当によく出てきてますね。

福嶋 やはりモビリティが重要なわけですね。

小野 今書いている長い小説でも、自転車が重要な役割を果たすんです。技術がつくりだした移動手段が、人々の生活を結びつけ、何かをもたらす。

福嶋 ちなみに、蒲江には御手洗病院がありますよね。あれはキヤノンの御手洗の関係者ですか。

小野 そうです。創業者は蒲江の出身なんですよ。

福嶋 小野文学の舞台は、そういう企業人を生み出している土地でもあるわけですね。

小野 そうです。でももう蒲江町はないんですよね。今や、佐伯市を中心に、蒲江も含めた周辺が大合併してしまいましたから。

福嶋 小野さんの小説にたびたび「まち」というのが出てきますが、これはおよそ佐伯市を指すのでしょうか。

小野 その通りです。蒲江など旧群部の人間は、峠を越えた先にある旧佐伯市を「まち」と言うんですよね。ダウンタウンですよね、「まち」というのは。