近代化の負荷とその逆用

福嶋 その話と関わりますが、小野さんの小説にはたびたび珪肺を病んだと称する男が出てきます。珪肺は近代化・産業化の生み出した傷であり病であるわけですが、同時にそれも実は仮病だったというような話も書かれていますね。

小野 これは本当に記録しにくいところなんです。おそらくはそこまで病状は悪くない。

福嶋 まぁ詐病ですよね。

小野 わりと元気に見える人が多いですよね。

福嶋 小野さんがさんざん書いたせいで、バレてしまったのでは(笑)。

小野 すでに有名な話のようですよ(笑)。関西だったかな、労働基準局に就職した友達が言ってました。出身地が大分の県南だって言ったら、「ああ、じん肺が多い地域だよな」と言われたそうですから。出稼ぎが多くて、昔は炭鉱に行っていた人も多かった。僕の周りにも、本当に肺をやられてしまって、歩くだけでも息がゼエゼエ切れてしまうおじいさんがいましたね。
それから、「豊後土工(ぶんごどっこ)」という、トンネル工事の人夫さんたちを輩出している地域でもあるんです。昔は労働環境が悪いから、山の地盤をダイナマイトで爆発させて、その粉じんを吸って肺を痛めた人が多かったようです。でも今は現場もずいぶんクリーンになったと聞きました。

福嶋 そのあたりにも「浦」の変質があらわれているんですね。

小野 そう。僕が子どもの頃の話ですが、仕事をしていないけど、生活には全然困っていなくて、一日中ぶらぶらしている大人を見て、どこかの集落の小学生が、将来の夢は「じん肺になること」と言って、先生にめちゃくちゃ怒られたそうです(笑)。症状のきつい人もいるし、そうじゃない人もいる。

福嶋 近代化・産業化の負荷をすごく受けているけれども、それを逆用してもいる。

小野 そこが、グアドループとかマルティニークとか、カリブ海の世界とどことなく近い感じがするんです。グアドループとマルティニークの場合は、フランスの元植民地ですから、本土からの保障が手厚いんです。しかも本土から資本が大規模に投入されて、ビーチにはホテルが建ち、インフラが整備されて、今は一大観光地になっている。歴史のネガティブな部分をずっと背負わされているが、リゾート化して本土から人がたくさん訪れている。しかし本土に比べると失業率はかなり高く、少なくとも経済的には決して豊かとは言えない。近代がもたらしたポジティブな側面とネガティブな側面が混在し、完全には白黒つけられないところがある。

福嶋 ポストコロニアリズムというのは、そういう二枚腰の戦略を捉えていこうとする思潮だったと思うんですね。その部分が、小野さんの作品にもあらわれているのではないでしょうか。

小野 まさに二枚腰ですね。シェイクスピアの『テンペスト』で、プロスペローがキャリバンをこき使うけど、キャリバンは「おまえが教えた言葉で、おれはおまえをののしってやる」と言うわけですから。

福嶋 そのキャリバンを踏まえてエメ・セゼールがシェイクスピアの『テンペスト』を領有化したりする、その逆転の戦略が面白いところですね。

グレートマザーはもう書けない

福嶋 ところで、初期の短篇小説を集めた『水死人の帰還』には、すでに小野さんの主要なモチーフがかなり凝縮されていると思うんです。なかでも「ブイになった男」はまさに戦争や死者の問題が描かれている。人間がブイにされてしまうという、とても残酷な話だけれども、同時にそれがある種の笑いを生んでもいる。スケベな猿がエロスを担当しているとすると、人間の男はむき出しのままプカプカ海に浮かばされて、一種のタナトスを呼び覚ましている感じですね。

小野 それは男なんですよね。女性ではなく。

福嶋 そこもお聞きしたいです。例えば、ガルシア=マルケスでもシャモワゾーでも中上健次でも女の語りが強いですね。しかし、小野さんの作品はジェンダーの配置がもう一段階複雑化していて、ずらしがいろいろ入っている。グレートマザーみたいな女性が出てきて、世界を語りによって包括するのではない。むしろ主人公の母よりも、母の親類のほうがしばしば包摂的な役割を果たしたりするわけです。ジェンダーに関する戦略は、どういうふうに考えていますか。

小野 グレートマザーみたいな存在はもはや書けないという自覚はあるんだと思います。つまり、何か全体を包摂するものがあって、そこに回帰することによって受け入れられ、救いがもたらされるというのは……。

福嶋 中上健次の「オリュウノオバ」みたいなものですね。

小野 それはもはやリアリティがなくなってしまった気がします。現実的にも、文学的にも。

福嶋 例えば、『九年前の祈り』だと「みっちゃん姉」、『獅子渡り鼻』だと「ミツコ姉」のような、一種の「姉」的な存在が出てきますよね。だいたい小野さんの小説だと、母と息子あるいは母と娘というのは、えてして対立的な関係にあってうまくいかない。どちらかというと、母の姉のようにちょっとズレたポジションにある人が、包摂的な役割を果たしている。そこは中上健次とかガルシア=マルケスに対する批評意識のあらわれでしょうか。

小野 それが批評意識と言えるのかどうかはわかりません。そういう書き方が自分にはしっくりくるということなんでしょうね。事後的な理解ですが。家庭というものが、何かを癒やしてくれたり、失われた調和を回復させてくれたりするなんて、もう単純に信じることはできないですよね。

福嶋 しかし、それでも家族についてずっと書き続けておられるわけでしょう。

小野 そうですね。でも、家族といっても、例えば『残された者たち』だと本当の家族じゃないですからね。血がつながっていないから。

福嶋 そういう家族の拡張は今の時代に必要なことですね。

小野 そうすると、僕は政治的に正しくなってしまうのかな(笑)。ただ、『崖の上のポニョ』に出てくる巨大なお母さんみたいな存在は今は書きづらいですよ。

福嶋 あれは宮崎駿の妄想の力業でしょうね。

小野 ああいう母親は書けないですよね。だって『九年前の祈り』の母親は、完全に失敗しています。