本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第21号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

〈前編〉はこちら
〈後編〉はこちら

また、こちらのページより電子書籍版をダウンロードしていただくことができます。

〈連〉について

蜂飼 第十一章は「〈連〉の源流」という章です。ここは現代詩とも関わるところで、お話を伺いたいと思います。どんな詩もその時代の現代詩だと言うことができる。「近代詩や現代詩のルーツ探しをしてゆくと、形態面からとは言え、連歌、特に鎖連歌に思い至る」と書かれている箇所があります。
 藤井さんは連歌に注目をされています。とくに、改行することと、近代詩、現代詩とを結びつけられています。改行とはどういうことか、という問いとともに、改行の前と後との行がまったく対等に並ぶ、という見方を提示されています。別の言い方としては「現代詩のルーツとして、中国詩および欧米詩に引き続いて、第三に短歌を連ねて生まれてきた鎖連歌の在りように求めようという提案をしたい」と。
 こういうことを言われている人は他にいないように思いますが、藤井さんだけがおっしゃっていることではないでしょうか? 他には読んだことがないです。

藤井 そうですね。連歌の研究者は何人もいらっしゃるけど。「かな」が始まったころの100年のことと同じで、連歌の最初のころの事例はなんにも残っていない。残っていないことこそ、みんなで作っちゃ捨てていたことの反映とも考えられる。

蜂飼 そうですね。その場でのもの、という扱いで、書いた結果をとくに大事に取っておくことはしなかったのだろう、という考え方ですね。鎖連歌と新古今調の関係について論じられている箇所も面白いです。『新古今和歌集』の影響が連歌に及んでいるというだけでなく、連歌からの影響が『新古今和歌集』やいわゆる新古今調に及んでいるとも言えるのではないか、と。実際に証拠はないんですね。

藤井 ないんです、残念ながら。だけど、いきなり出てきたわけではないはずです。その時代として、誕生の契機があったろう、ということは想像できるんです。残っていないものを、想像する。残っているものだけで説明する文学史ではない何か。そんなことを考えたいんです。