近代詩、現代詩の原風景

蜂飼 第十六章「近代詩、現代詩の発生」について、伺いたいと思います。私にとっても、とりわけ興味深い、重要な章として拝読しましたが、何度読んでも、なかなか理解ができない点があります。
 藤井さんは、詩の流れについて、大きく2つに分けて論じられています。1つは、「翻訳詩から西脇順三郎、アヴァンギャルド」という流れ。もう1つは、「萩原朔太郎、四季派」の流れ、です。そして「現代、アヴァンギャルドはなお可能か」という視点でお考えだと思うのですが、このことについて、伺えますか?

藤井 はい。いま、ここに何冊か、本を持ってきました。これは、筑摩書房の現代日本文学全集の第93巻『現代譯詩集』の巻。出たのは、私が中学生か高校生のころで、『於母影』、『珊瑚集』、『月下の一群』など、訳詩集が入っています。きらっと輝く、欧米のほんものの詩っていうのかな、何というか。

蜂飼 奥付を見ると、昭和32年。執筆者代表、佐藤春夫。

藤井 しっかりした文学者たちが、翻訳にみんな打ち込んでいた時代ですね。普通はそういうこと、忘れ去られちゃって。もう1冊、これは『現代詩集』の巻。鮎川信夫さんとかが入ってくるのは例外で、他はだいたいつまらない。私の精神的風景の最初は、こういう欧米の翻訳詩をベースにする一方で、日本の近代詩は、つくりものとして出てきたと思った。
 『現代詩集』のいちばん新しいところでたった一人、昭和生まれが、谷川俊太郎さんですからね。そういうのはきらきらしてるけど、その他大勢はだいたい、つまらない。日本語のこういうのは、作りもの、にせものっていう感じがして。日本の近代詩はこういうところから始まったっていう、何というか、いとおしさっていう感じもある、私にとって。

蜂飼 筑摩の現代日本文学全集の詩の巻、2冊、これらに藤井さんの詩の風景の原点があると。藤井さんにとって、翻訳詩は、日本語に置き換えられた日本語詩としてあったわけですよね? 

藤井 私の中ではこういう近代詩の背後に、きらきら輝く世界の詩があって。それに対して、日本語による近代詩からの流れは、狭いというのではないけど、四季派とか、まずしい眺めだと。あまり魅力がない。中学生、高校生のときだから、そんなにちゃんと読んでいるわけではないです。ぱっ、ぱっと見ているだけだから。

蜂飼 それから、折口信夫(釈迢空)の論文「詩語としての日本語」(『現代詩講座』第2巻、創元社、1950)についてです。先ほどから触れられている筑摩書房の現代日本文学全集の一冊ですが、『釈迢空集』第76巻(昭和33年)にも、この論文は収録されています。『日本文学源流史』でも藤井さんが繰り返し参照されている論文です。

藤井 折口の論文の趣旨として、日本の近代はそういう翻訳から始まって、にせものの近代詩を作っていったけれども、それがしだいに成長して日本語の近代詩になってゆくという流れなんだと。私が感じたことと、同じ意見なんです。

蜂飼 どういう意味でしょうか? 

藤井 結論としては、日本近代のにせものっぽいものが、繰り返し作られるうちに、だんだん、本物になって、近代詩が成立してゆくと。

蜂飼 最終的には、折口は肯定しているのでしょうか?

藤井 ううん、最初は、にせものというか、翻訳の日本語を摸倣して作っていったわけでしょう? それが何十年とやっているうちに、日本の近代詩が成立してゆく、といったこと。そういうふうに読める。そうすると、折口は何となく四季派肯定とか、そういうふうへ行ってしまうようなので、そこにも私は同意できなくなるのです。

蜂飼 はい。そこのところがよくわからないのですが、たとえば、西脇順三郎の例があります。西脇が日本語でも詩を書くことに希望を持ったのは、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』(感情詩社、白日社、共刊、1917)を読んだからだと。日本語でも詩を書くことは可能だ、と思ったというんですね。それ以前は、象徴派の日本語詩などを読んでいて、全然おもしろさを感じられなかったというわけです。最初の詩集は英語で書いて、イギリスで刊行しています。日本へ戻ってから、まず詩論『超現実主義詩論』(厚生閣書店、1929)、それから詩集『Ambarvalia』(椎の木社、1933)を刊行するという流れです。
 そうなると、両者は、相互に影響を与え合うというのが、日本の近代詩だろうかと思うのですが、いかがでしょうか? となると、藤井さんはアヴァンギャルドに認定されている西脇なのですが、どうしても焦点がややぼやけるように感じるのですが、そのあたりについて、いかがでしょうか?

藤井 なるほど、そうですね。きれいに分かれるわけじゃなくて、絶えず刺激を受けてできてゆく流れですから。訳詩集の延長上に、そういう風景もあるわけです。

蜂飼 もう1つ、折口信夫の論文「詩歴一通」(『現代詩講座』第2巻、創元社、1950)についてです。定型ではない詩、非定型詩つまり自由詩に対して、折口はどのような考えを持っていたのでしょうか? 初出の1950年は、いわゆる戦後詩が展開されている状況です。晩年の折口は、非定型詩、つまり自由詩も書いていますね。「暗渠の前」や「ごろつき仙人」などです。このことをめぐって、藤井さんは「口語の未来に託せるか」という言い方で言及されています。
 折口は「詩歴一通」でこう述べています。
 「これは未来性を持たない現代の日本標準語が、われわれの精神を散漫にし、我々の精神をかき乱してゐると言ふ外はない。だが私は象徴主義に身を託する気にもなれない。さうかと言って、しゆうる・れありずむの画面を、自分の詩に写し取つて来ようとも思はない。又さうして見た所で、我々には、最苦しい日本語と言ふ障壁がつき立つてゐる。此とせめぎ相ふのが、我々の一生である。私の残余の詩歴は、恐らくはこの苦悩の為に使ひ果たされることであらう。」
 歌人であった折口は、口語自由詩をどう受け取り、どう眺め、観察していたのか。その顕れだと思います。藤井さんは、「これまで文語の詩(定型長詩)や短歌(これも定型文語詩である)を書き馴れてきた折口が、いま現代語である口語に未来を全幅に託せるか、という壁であって、答えはむろん、ノーに近い。未来性のない現代口語に、しかも未来を託するとは、未来性じたいを言語に開発するほかないだろう」と。

藤井 はい、そうですね。いったん、こういうかたちでまとめてみました。

蜂飼 「暗渠の前」「ごろつき仙人」など、口語自由詩を試みたということに関しては正直、折口のような歌人がここまでするんだな、と思いました。そちらの方向に詩の未来があると信じきれたわけではないけれども、ということですよね? 

藤井 折口に「歌の円寂する時」という一文があります。1926年、大正15年に書かれています。つまり、昭和との境です。その中に「短歌と近代詩と」という一節もあって、折口としては、詩の創作を考え出していたんですね。そのころ「アララギ」の島木赤彦が亡くなって、それに対して折口は、短歌の円寂ということを書くわけです。短歌は滅び行くと。そうなると、折口としては愛着を持って、滅んだあとの短歌とつきあい続けた、ということですよね。

蜂飼 折口の「短歌本質成立の時代―万葉集以後の見わたし」と「歌の円寂する時」とは、どちらも大正15年に書かれていて、それについて藤井さんは、「〈成立〉と〈円寂〉とを同時に論じるという異様な精神風景ではないか」と論じられています。そして、「近代詩から現代詩への推移と断絶とのあいだにみずからを作品創作者としてまで位置づけようとしている一歌人研究者をここに見いだす」と、踏み込んだ観察をされています。

藤井 はい。上田敏の『海潮音』などを一読者として読み続けてきた折口が、さらに晩年になって、近代詩から現代詩へという流れを肯定してゆくんですね。

蜂飼 さらに重要な藤井さんのお考えとして、「詩にならなければならない短歌」という言い方をされていますが、これは短歌が「前衛性を切り捨ててある」現在だ、ということでしょうか? 

藤井 はい。まさに岡井隆さんが亡くなられて、なんだったのかと今年は迫られるところです。折口は、見るべきものを見ていた人だなと、改めて。短歌と詩、両方を論じていた人ということでね。そして岡井さん。前衛短歌。私もその真似ごとをしているようなところがありますが、短歌の問題と詩の問題と、その両方にわたったときに、近代とは何かという課題が浮上します。さっきの筑摩書房の文学全集の『現代短歌集』第90巻の最後のほう、ぎりぎりのところに戦後の歌人が少し入っていますね。

蜂飼 はい。いま、近代という言葉を出されたので、触れておきたいですが、こう書かれています。「われわれが日本社会で、近代的とか、モダンとか言う場合に、古代や古典を対比することがない。また日本語で、モダニズム、近代(合理)主義などと言う場合にもその意味合いを絶対視する。古典を考えあわせるひとが滅多にいない」と。また「ヨーロッパ語としては“近代”の相対化ということが要点で、ある種の古典主義に対立する態度として“モダニズム”があるのではないか、ということに思い当たる」と指摘されています。「思うに、伝統から切れたところに、現代詩を構想する日本社会で、モダニズムという語を、どう定着させるか、どう定着してゆくか、という問題だった。伝統(ないし古典)の切実さが纏わりつかないとしたらば、モダニズムという語はその先、どうなるか」と。

藤井 はい。欧米の近代って、その直下に中世とか古代とか、伝統や古典の支えを考えるわけですよね。日本社会ではそれがなかった。近代は切り離して考えられてきた。

蜂飼 そのことに繰り返し気づく必要があるということかと思います。