本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第22号』に収録された巻頭座談会を再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。
また、こちらのページより電子書籍版をダウンロードしていただくことができます。
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近年、大学だけでなく小中高等学校、あるいは社会のさまざまな場所で、「哲学対話」ないし「哲学カフェ」といった取り組みが広まっている。「哲学対話」とは、哲学者の名前や概念など哲学史の知識を一切必要とせず、「自由とは何か」、「働くとは何か」といった問いをめぐって、10名前後のグループでの対話を通じて考えを深める実践である。「相手の話を否定や揶揄しない」、「その限り何を発言しても自由」といったいくつかのルールがあり、ファシリテーターの進行のもとで対話が行われるが、なんらかの結論や意見の良し悪しを求めるものではない。対話を通じて思考を深めることがその目的である。立教大学でも文学部教育学科では河野哲也氏を中心に講義や演習にて「哲学対話」の取り組みがなされており、また2019年度より全学共通科目にて「哲学対話 in Rikkyo」が開講された。「哲学対話」とは何か、大学での「哲学対話」の実践の意義や課題は何かをめぐり、これまで「哲学対話」にさまざまなかたちで関わってきた四名の論者にお話を伺った。
本日の主題
渡名喜 本日は四名の方をお招きして「哲学対話とは何か」をテーマにお話を頂きたいと思っています。最近、「哲学対話」というものの知名度がかなり高くなってきており、これまで以上に市民権を得ています。「哲学カフェ」ですとか、学校教育における「子どものための哲学」ですとか、さまざまな実践が広まっています。今回は、まさにそうした実践の渦中にいらっしゃる方々をお招きして、哲学対話とはどういうものか、その意義はどこにあるのかを伺いたくてこのような座談会の場を設けさせていただきました。
私自身も今年度から、立教の全学共通科目のなかで、今いらっしゃる齋藤元紀先生のお力をお借りして、合同で「哲学対話in Rikkyo」という科目を担当しています(授業自体は2019年に開講)。履修学生も百名を超え、学生の関心も非常に高いことを実感しています。こうした授業実践を今後どう発展させていくべきかについても、皆様のお知恵がとても参考になると思っています。
本日お招きしたのは、以下の四名の方です。
まず、まさにこの哲学対話、とりわけ教育の現場における哲学対話の実践を主導していらっしゃる、本学の文学部の学部長でもいらっしゃいます河野哲也先生です。河野先生は、哲学対話ないし子どものための哲学についてはさまざまなご著書がありますが、とりわけ『ゼロから始める哲学対話』という哲学対話の教科書のような本もお出しになっています。二人目は、同書にも寄稿していらして、また、高千穂大学で「パイデイア哲学カフェ」という哲学対話のサークルを組織なさっている齋藤元紀先生です。三人目は、現在、関西外国語大学で教えていらっしゃる戸谷洋志先生です。J-popについての哲学から、ハンス・ヨナスの倫理学、原子力の哲学まで幅広く研究なさっている方です。戸谷先生は哲学対話の実践も精力的になさっていると伺っておりまして、ぜひ、どういう実践をなさっていて、そこでどういう問題を抱えていらっしゃるのか、今後どうなさっていくのかということをお伺いしたくて、本日お声がけをさせていただきました。四人目は、永井玲衣先生で、最近公刊された『水中の哲学者たち』がかなりのヒットとなりましたが、哲学対話の実践を長く続けてこられた方です。立教大学の全学共通科目でも「教育学への扉」を担当頂いておりまして、そこでも哲学対話の実践をなさっていらっしゃると伺っています。
私の話はここまでにして、本日皆さんにお伺いしたいと思っているのは、先ほど若干紹介させていただきましたけれども、哲学対話ということでどういう実践をなさっているのか、そこにどういう意義を込めていらっしゃるのか、あるいは逆に、現在哲学対話が直面している課題とか問題点をどのように見ていらっしゃるのか、という点です。それから、この企画自体が大学院の紀要向けの座談会であるといことにも関係します。おそらく哲学対話というのは、さまざまな場所に接続すると思いますが、とりわけ大学における哲学教育という場合にどういったことが考えられるのか。皆様の考えを伺いたいと思っています。
ただ、以上はあくまで仮のものですので、ぜひ「いや、そっちよりはこっちのテーマの方が良い」とか、さまざまに「暴走」していただくのもむしろ哲学対話の醍醐味ではないかとも思います。以上はあくまで仮の設定として、ご自由にお話を頂ければと思っております。
それではまず河野先生、よろしくお願いいたします。