渡名喜 戸谷さんいかがでしょうか。これまでの活動から振り返って哲学対話のこういうところが意義だという点について改めてお聞かせください。

戸谷 そうですね。ちょっと河野先生と齋藤先生のお話に重なるところもあると思うんですが、私はどちらかというと主催者としてではなく一参加者として参加することも実はあります。それこそ齋藤先生や永井先生の哲学カフェにお邪魔したこともありまして、その節は大変お世話になりました。やはり自分が一参加者として参加してみて印象に残るのは、普段の仲間たちのあいだではわざわざ説明しないようなことを説明することになる、ということですね。例えば正義とか愛とか友情とかいう問題について、家族とか気心の知れた友達同士だったらそもそも一から説明しないような、当たり前だと見なしていることを、一から説明する。相手が自分と同じ前提を共有していないということを念頭に置いて、手前のところから説明することになるので、全部を言語化しないといけなくなるんですよね。この言語化という作業、他者に伝わる言葉を考えるという作業自体が、自分の当たり前を揺さぶってくるんですよ。「あれ、これって本当に話の辻褄があってるのか?」って自分で不安になってくるんですよね。それがすごく難しいし面白い。もちろん、他者から今まで知らなかったような話を投げかけられることで常識が揺さぶられることもありますが、それだけではなく、他者に対して自分の考えを説明するというだけでも、自分が依って立っている「当たり前」、常識がいかに根の無いものなのかというのを痛感させられるんですよね。その、ある種の無力さみたいなものが、いったん対話のなかで出尽くして、「わかんないですね」ってなったところから、じゃあどうやって考えたらいいのかをみんなで育んでいく流れができてくると、僕はすごい興奮するというか、「おっ来た」って感じになりますね。もちろん対話の場を進行役がコントロールできるわけではないので、特に社会人の方を相手にしているとコントロールができないことが多いんですけど、できるだけ主催者としてはそういう流れができやすいような配慮というか場づくりをするように心がけています。だから逆に言うと、ひたすら自分のことを話し続ける方に遭遇したときにちょっと困っちゃうというのが長年の悩みというか、そこの立ち振る舞いが自分は勉強中だなと思っています。

渡名喜 もしかして、今おっしゃったことが、さっきご紹介くださった「技術」をテーマにした哲学カフェでの、専門家と一般の市民との関係ということにも絡んでくるんでしょうか。

戸谷 そうですね。ただ、この場に出て来ているのに申し訳ないのですが、「技術の哲学カフェ」について自分でやってはいますが、まだうまく「こういうものです」とプレゼンできない状態で、試行錯誤で動かしている段階です。道具とかテクノロジーとかの使い方っていうのは一通りであるように見えて実は使う人のライフスタイルとかその人の置かれている状況とかによって全く違った意味を持っているんだなというのが、技術をテーマにして哲学対話をしているとすごく痛感させられるところで。例えばこの前「料理」をテーマにして哲学対話したときに、あんまりこれはよろしくない話かもしれませんが、男性と女性の参加者で「料理をしなければならない」というプレッシャーに対する感じ方が全く違ったんですよね。一例ですけど、男性の参加者の方からは、料理をしなければならないなんていうことはないじゃないか、そんな同調圧力は実際にはないんじゃないかというような発言が飛び出してきて、それに対してすごい女性の参加者から反論が来るみたいな。当然そうなると思うんですけど、同じような技術の営みであっても、それがどんな人がそれについて考えるかというか、当事者になるかによって、その意味合いというのは全く違うんだなというのに気づかされるのはすごく新鮮な経験です。
 それから若干話が逸れてしまったら申し訳ないんですけど、オンラインをテーマにして哲学対話をしたことがあって、このときは本当にいろいろすごい発見がありました。例えばその時に出てきた意見で「なるほど!」と思ったのが、「オンラインでしゃべってると声の調節ができない」っていう意見です。例えば、いま僕たちが教室の中にいて車座になって話をしていたら、相手に届く声の音量でしゃべるんですよ。渡名喜先生まではこれぐらい離れているから、これぐらいの声だったら聞こえるなっていう、相手に届くような声量を調整して話すんですよね。だけどオンラインだったらデバイスでいくらでも音量を調節できるので、聞く側が音量を調節することができるので、しゃべる方は何もそれに対して配慮しないで語ることができてしまう。じゃあ、この配慮って対話の中でどんな意味を持っているんですかね、っていう問いかけが出てきて、なるほどと。実際に対面で話してる時は、単に話してるんじゃなくて声量をコントロールしてるんですよね。その声量をコントロールするということ自体が、何かのコミュニケーション的な意味を持っているというか、相手に対する一つの振舞いとして意味を持っているんだなぁってことに気づかされました。これはオンラインという技術の話をしてるんですけど、実はオンラインが登場する前の日常の方の対話の仕方について新しいことを気づく場にもなっていたりして、そのあたりの往復がとても面白いなと思っています。