渡名喜 どうもありがとうございました。齋藤さんに、先ほどだいたいご活動についてお話いただきましたけれども、ここがやはり哲学対話の意義だと考えていらっしゃることについて改めてお聞かせください。

齋藤 そうですね、先ほど社会人の方と大学生という二つの活動が主なものだというふうに申し上げましたが、以前には銀座でオフィスを貸してくださるところがあって、そこの会議室を根城にして対話の活動もしていました。大学ではやはり世代が非常に近しいので、同じ意見で集約していくような傾向が若干強くなるところが感じられます。それに比べると、大学の外、教室の外に行くと、多種多様な方々が入ってくる。先ほど戸谷さんもお話しされてましたが、全然今まで知らなかった人が入ってきて話ができる。そこで思考がさまざまに活性化されたり、刺激を受けるというところも大いにあるんじゃないかと思います。その点で言えば、対話を誘発していくというか、一方的に自分の考えだけを話すのではなくて、こういう考えがあったらどうなのかとか、あるいは別な角度から見たときにどういうふうに考えていけばいいのかとか、思考が深められていく、あるいは思考が別様になっていくチャンスに遭遇することになるというのは、哲学対話の意義だと思います。教室のなかでやるときには、教員側がファシリテーターの役をやらなければならない場合があるのですが、できるかぎりそういう役回りを引き受けないようにしていけばいくほど、学生たちの方は自由にどんどんしゃべって自分の思考を深めるようになっていく。これは対話にとって必要なところかなと思っています。学生はみんなそれぞれに自分の考えていることがあって、本当はしゃべりたくてしょうがないんだけれども、授業や講義なんかでやっているのはある種の言論封殺というか、学生にあんまりしゃべらないようにさせて彼らの思考を停止させてしまう。そういう側面が裏側ではあるんじゃないのかな、なんていうことも時おり授業をやっていると感じることがあります。

渡名喜 耳が痛いお話しですね(笑)。一点お伺いしたいのは、さっき高千穂大学の学生さんたちが主導でなさっている会に、最近では実は社会人の方の参加が多くなってきているとおっしゃっていましたが、社会人の方は、そこに何を求めて来ていると思われますか。

齋藤 何を求めているんでしょうね。ただ話したいだけじゃないかな、って思うんですけど(笑)。特にコロナ禍になってオンラインが広まったおかげで、逆に対話への参加の精神的な障壁や場所的な制約がなくなった。そのおかげで、年齢層も本当にばらばら、地域もばらばら、日本全国から、それこそ海外からも、情報を見た人が「ちょっとお話ししたいな」と対話に参加してくださるようになりました。そういう場所が出来上がったおかげで、対話が非常にやりやすくなりましたし、非常に面白い場所にもなっているかなと思います。対面には対面の良さはもちろんあるんですけれども、オンラインにもオンラインの良さがあると思います。異質な見解がたくさん拾える場所ができるというところは、大いにプラスにはなっているんじゃないかと思います。
渡名喜 なるほど。オンラインと対面というのも重要な論点だと思いますが、今の話では、学生が主体で大学でやっているイベントに社会人がやってくるというのは一般的には非常に特異にも見えます。そういう意味でも哲学対話の試みは面白いですね。

齋藤 そうですね。今までの傾向として、毎回問いのテーマを一応決めていますが、例えば「自信って何だろうか」というテーマのときには、その問いを出した学生がファシリテータを務めます。そこでその学生が「私こういう点を疑問に思ってまして」みたいな話をすると、それはどういうことなんだろうって言って、その問いからちょっと人生相談的な展開になったり、「こういうふうに考えたらいいんだよ」という人もいたりします。そういうふうに、しゃべりたいっていうことのなかにはもしかすると知恵を一緒にシェアしたいというか、そういう意識を持っていらっしゃる方が結構多いのかなとは感じています。