本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第20号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。
また、こちらのページより電子書籍版をダウンロードしていただくことができます。
マールブルクの哲学者
福嶋 哲学の話に移りましょう。佐々木先生の専門であるガダマーの自伝(ハンス・ゲオルグ・ガーダマー、中村志朗訳『ガーダマー自伝──哲学修業時代』未来社、1996年1)を読むと、彼がマールブルクの知的空間に深く根ざした哲学者であることがわかります。ガダマーは「対話」を基本的な理念としましたが、それはおそらく抽象的な話ではなく、実際にマールブルクでカール・レーヴィットやマルティン・ハイデガー、パウル・ナトルプといった思想家たちとの交流の中で自己形成してきたことが大きい。友愛や尊敬に満ちた対話が哲学のベースになる。その理想的な現実が1900年生まれのガダマーの世代を支えたのではないでしょうか。
佐々木 ガダマーはもともと大学教授の息子で、そこがハイデガーとは大きく異なるところです。ハイデガーが学問のない教会の下働きの息子だったのに対して、ガダマーの父親は今で言う創薬科学と呼ばれる分野の研究者で、マールブルク大学に勤めていたのですが、正教授としての地位をブレスラウという町の大学に得ることになった。それでブレスラウに引っ越して、ガダマーは中学高校時代をブレスラウで過ごしています。
ブレスラウは現在はポーランド領で、名前もヴロツワフと呼ばれています。これはスラブ人が住んでいた地域に中世からゲルマン人が進出してドイツから東方領土と呼ばれたところで、ドイツの町として発展したのですが、第二次世界大戦後に設定されたオーデル・ナイセ線で切られて現在はポーランドの一部になっています。本来ポーランドだった東の部分がソ連の領土になり、ドイツだったところがポーランドになるという構図で、もともとポーランドだったところは現在はベラルーシになっていますね。
福嶋 一口にドイツの哲学者と言っても、その内実はかなり多様です。例えばカントの生まれたケーニヒスベルクにしても、てっきりドイツの真ん中あたりにあるのかと思い込んでいたら、今で言うリトアニアとポーランドに挟まれたロシアの飛び地で、海に面した土地なんですね。
佐々木 ケーニヒスベルクはロシアではカリーニングラードと言って、軍港の町です。ソ連時代には、日本人の研究者がカントのお墓参りをしたいと思っても、軍港の町だから外国人は入れてもらえなかったそうです。
福嶋 カントは生涯のほとんどをケーニヒスベルクで過ごしたわけですが、実際は港町なのでいろんな情報が入ってきたわけですよね。
佐々木 そうです。プロイセンの副首都だった大きな町で、情報は何でも入ってきたと思います。
福嶋 ガダマーも政治的・軍事的に一筋縄ではいかない境界の世界を生きていた。ハイデガーが農民的なところをもつのに対して、ガダマーは都市的な哲学者ということになるでしょうか。
佐々木 そう、都市的で、とても社交的な人です。これには理系の父親の影響があるのではないかと思います。理系は共同研究をするので、研究者仲間で一緒にやっているのを見て育ってきたわけですから。
父親は息子も理系へ進むのを期待していたそうです。ガダマーはそれには反発してブレスラウ大学の人文系へ行くのですが、マールブルク大学の教授になった父とともにマールブルクへ戻ってくる。マールブルク大学の哲学は新カント派の牙城で、マールブルク学派といってヘルマン・コーエンといった著名な論理学者なんかが中心的な存在でした。それに対して、もっと価値哲学的な倫理学が中心を担ったのは西南ドイツ派といってハイデルベルクを拠点にしていました。ガダマーがマールブルクへ戻ったのは、たまたま父親が故郷に錦を飾るかたちでマールブルクの教授になったからで、積極的な理由があったわけではないのです。けれどもそこで、当時有名だったニコライ・ハルトマンをはじめマールブルクにいた新カント派の大物たちから直接教わるという幸運が訪れる。そこに、ハイデガーが最初に得た教職の場としてやって来るのです。