ハイデガーとガダマー

佐々木 よく知られているように、ハイデガーは貧しい家の出身です。ブルデューではありませんが、ヨーロッパというのは文化的再生産が家庭の中で行われるという古い仕組みが残っているところです。その点、ハイデガーの父親は教会で墓を堀ったり棺桶をつくったりという下働きをする寺男みたいな人でしたから、学歴も教養もないのです。その息子が大学教授になるというのは、ドイツでは普通はまずあり得ないことです。
けれども、ハイデガー少年はものすごく優秀だったので、神父さんがその才能を惜しんで教会から奨学金をもらえるようにして、コンスタンツのギムナジウム、そしてフライブルクの大学へ行かせてもらったのです。聖職者になるための奨学金をもらったので最初はカトリック神学を勉強したのですが、途中で哲学に変わってしまう。

福嶋 ハイデガーにはフリッツという弟がいますね。最近、『マルティンとフリッツ・ハイデッガー: 哲学とカーニヴァル』(ハンス・ディーター・ツィンマーマン、平野嘉彦訳、平凡社、2015年)という本を読んだのですが、フリッツ・ハイデガーは朴訥ではあったがユニークな言語能力を備えていて、カーニヴァル的な性格の持ち主でもあった。だから、村の祭りがあればとても重宝されるとともに、ナチスが台頭してくるとそれを茶化すようなことを言っていたらしい。ハンナ・アーレントもマルティンへの手紙で「あなたの弟のフリッツは非常にいい文章を書く人だ」と言っていたりする。兄のマルティンはヘルダーリンを介してドイツ語からギリシャ語へというようにヨーロッパ文明の本筋をさかのぼっていくわけですが、その皮を一枚剥けば村祭りの世界が現れるということがフリッツの存在からもわかるんですね。

佐々木 そういう人とガダマーというのは、肌が合わないというのはあったのではないかとは思います。とはいえ、ガダマーはマールブルクに来る前から、ハイデガーの講義を聴きに行っていたようですね。ガダマーに限らず他にも多くの学生が、他所の大学からハイデガーの講義を聞きに来ていたそうですが。

福嶋 さっき言った『自伝』には、ガダマーとハイデガーのやりとりについてもエピソードが紹介されています。たとえばニシンが死ぬかどうかで、ハイデガーとその知人たちが盛り上がった。ハイデガーによれば動物は死なない、ただ衰弱するだけでsterbenではないというわけです。これはさりげないけれども、人間と動物を峻別するハイデガーの危ういところをよく示しているのではないか。あるいはハイデガーのケーレ(転回)という概念は、一般には神学的な改心や転向のように捉えられているけれども、そうではなく、山を登って途中で折り返すことがケーレである。何度も折り返しながらだんだん山を登っていくのがハイデガーの哲学だ、とガダマーは言うわけです。このあたりは身近にいた人ならではの面白い読み方だと思いますね。