「存在」と「伝統」

福嶋 ガダマーのライバルにジャック・デリダがいますが、この両者は似ていなくもない。つまり、デリダの脱構築の対象はもっぱらヨーロッパの古典的文献なので、彼も結局はヨーロッパ中心主義者じゃないかという批判は以前からある。ガダマーはガダマーで同じようなことを言われていたりするわけですね。ただ、アルジェリア生まれのユダヤ人のデリダは腰が軽いというか、日本にもよく来ているし、そういう行動によって脱構築や散種を実践していたところもある。他方でガダマーの場合は居住まいを崩していくという感じはなく、文化的な伝統はその中で完結したものだという姿勢を保ち続けてきたわけですね。

佐々木 ガダマーの有名な「地平融合」という概念は厳密に言うと、過去の地平との融合を理論化しているものなのです。でも、現在とはまったく生活習慣も考え方も違うのに、どうして過去のことがわかるのか。それはやはり、次々と過去から受け継がれたてきたものの一部を使いながら変わってきたという流れがあって、その末裔であるから、ということです。

福嶋 デリダの場合はエクリチュール、つまり書かれたものの伝承が大きなテーマだと思うのですが、ガダマーの場合、書かれたものと話されたものの間の区別は、そこまで厳密にはしていないということでしょうか。

佐々木 そうですね、していない。

福嶋 そうすると、過去との対話というのはテクストでなくてもいいということになるのでしょうか。

佐々木 ただ、実際にはテクストでしかできないわけです。デリダの場合は、テクストと言っても、テクストを読む段階でもう話し言葉に化けてしまうということがあり得るじゃないですか。ガダマーの場合には、そのエクリチュールを可能にしているarchi- écriture(原エクリチュール)との関係で、エクリチュールを重視しているのではないかと思います。archi- écritureというのは、ハイデガーの言う存在に近いものがあるのではないか、と。

福嶋 そうですね。デリダの場合は原エクリチュールといっても実体的なものではなく、むしろそこには差異と遅延しかない。そうやって神学の罠をすり抜けようとする。しかし、ハイデガーの場合はどうか。例えばジョージ・スタイナーは、ハイデガーは確かに神学を批判したけれども、結局彼の言うSein(存在)は実質的には「神」と置き換え可能ではないかと言っています(生松敬三訳『マルティン・ハイデガー』岩波現代文庫、2000年)。そのあたりはどう思われますか。

佐々木 そういう理解をしてしまうとハイデガーの哲学的努力が全く生かされなくなってしまうので、身も蓋もないんですよ。

福嶋 しかし、ガダマーの場合はあまりそういう神がかった感じはないというか、よりプラグマティックな印象を受けます。

佐々木 ガダマーは、ハイデガーが陥った、晦渋で、間接的な表現はできる限り用いずに、できる限り普通の論理性を持った言葉で表現するわけです。そのように努めているところが健全だと思います。

福嶋 なるほど。ハイデガーの言う「存在」とガダマーの言う「伝統」というのは、ある程度近いものなのでしょうか。

佐々木 伝統の中には、その存在が含まれているのだと思います。伝統と言うといろいろなイメージがありますが、伝統の本質は何かと言われたら、それはちょっとわからないですよね。ハイデガーはそれを自分の哲学の概念でそのままストレートに「存在」と表現しているのですが、ガダマーはもう少し具体的なイメージを絡めて表現しようとしている。それだけに、ガダマーのほうが方法論的な展開があり得るのに対して、ハイデガーは本質的な概念を直観的に指定してしまっているので、展開のしようがない。

福嶋 確かにカルト的にならざるを得ないところがありますね。

佐々木 そうです。だから、ハイデガーにはちゃんとした思想の後継者はいなくて、彼の哲学に寄り添って考えようとする人々はみな亜流になってしまって、ハイデガーの使った用語をそのまま使って、ハイデガーが言ったように言うしかなくなってしまう。

福嶋 だからフランスでは、フーコーでもデリタでも、ハイデガーを借りつつ全く別の方向に展開していったということなのでしょうね。

佐々木 ハイデガーに触発されて展開していった、というようなかたちですよね。

福嶋 少し角度を変えますと、ハイデガーの『ヒューマニズム書簡』では、人間というのは存在の主人ではなく「存在の牧人」であるという言い方がされています。存在そのものではなくて、その傍らで存在をケアしているのが人間である、と。ガダマーの場合、人間は「伝統の主人」にはなれるのでしょうか。

佐々木 なれないと思います。

福嶋 となると、やはり「伝統の牧人」というか、その全体を捉えきれない「伝統」を横で見ているという感じなのでしょうか。

佐々木 横で見ているというか、それを引き受けているということですね。引き受けて生きざるを得ない。そうすることによって自分の主体性の限界を自覚し、間接的にその存在の機能みたいなものを、具体的な歴史やさまざまな展開の中に表現しているのではないかと考えています。