存在の強さ
今村 想田さんが被写体に選択する人って、やっぱり存在が強いというか、それこそ、何というか、他人のためのように思えるのだけど、自分のためにそれをやっちゃっている。だからお父様が(『Peace』のなかで)、「土日もフルに働きました。「そんなに働いたら死んでしまうぞ」と言われても、「これは実験的にやっとるんじゃからいいんじゃ」って。しかしこれはお金に代え難いものがある」っておっしゃっていて。山本先生も、(『人薬』で)「過労死したときのことを考えて妻と子供のためにマンション買った」っておっしゃっていて。「死んでもいい」とか、「過労死したときのことを考えて」って、ちょっともう普通の感覚からするとびっくり仰天することをおっしゃっていて。
柏木 ああ、ああ、そうなんだ(笑)。
今村 自分の子どもをかわいがるとか無理っていうものが出てくるというか、照らし出す役割というのを果たしていると思うんですね。想田さんがキャメラを向けてきた相手の人たちが、いっぽうで生活者としてどうなの? という部分があるとすると、それというのは、じゃあ、当たり前とされていることが、たとえば家族制度そのものが、実はおかしいんじゃないかっていうことを映し出しているような気がするんですが。
想田 ええとね、何だろう、やっぱり僕が撮影中にひどいっていうこととも関係すると思うんですけど。
柏木 そうですね。
想田 何かこう、自分のキャパを超えて精いっぱいのことをやらないと、獲得できない境地っていうのが映画作りにはあるんですよ。それはもう瞬間的に、自分の100%を超えたところの力を出さないと到達できない。これは普通にやっただけでは無理っていうような部分っていうのが、いつもじゃないんですけど、ときどきあるわけですね。で、そういうときにはなりふり構わず全てを犠牲にして、それを優先させないことには無理だっていうようなことがあって、で、そういうことが多分、僕が撮影しているときに起こるんだと思うんですね。だけどそれは、規与子さんも同じなんですよ。規与子さんも、自分の仕事が一番大事で、たとえばダンスをやっていたときには、公演があるとかっていうと、もうそれだけですよ、考えていることなんか。でも、それはしょうがないと僕は思う。だって、何かすごい大きいことをやろうと思ったら、ある程度の犠牲っていうのは、瞬間的には生じるんですよ。それもなしだったら、大事な仕事っていうのはなかなかできにくいと思うんですよね。ただ、そこで大事なのは、根底にお互いへの信頼というのが必要だということだと思います。いまはこう振る舞っているけど、それはいまこういう状況だからなんであって、いつもじゃないんだっていうね。
で、規与子さんと彼女の両親との関係も、僕はそうなんじゃないかなと思っている。お父さんとお母さんと規与子さんの関係というのも、やっぱり根底には、すごくこう、親子の間にラポール(関係)っていうか、絆みたいなのが強くあるんです。強くあるから、表面的に、そうやってないがしろにされても、別にどうってことないんです。
柏木 それはそのとおりですね。
今村 お二人を撮ったドキュメンタリー(『映画作家 想田和弘の“観察”』)のなかで、「猫の映画が出来たから見る?」って言って、規与子さんは想田さんの映画に真剣にコメントしているのに、規与子さんが太極拳の道場から帰ってきて、「どうもここがうまくいかない、こうなんだよね、どう思う?」って訊いたら、「観察すればいいんじゃない?」とか適当な返事をしていて、そのあと、キャメラに向かって、「俺に訊かれてもわかんないよね」って、なんか強弱あるなって。
柏木 すごい鋭いですね、純子さん。めっちゃ強弱あるんですよ。だって、「僕は、ダンスをあなたがやるときに」って言うけれども、そのなんか協力の比重がね、すごく違うんですよ。
想田 そんなことない。そんなことない。
柏木 いや、ものすごく私のなかでは違う。