自立と共存

今村 『精神0』に、(山本先生の奥様の)芳子さんのお友達の居樹(すえき)さんというかたのお家でのシークエンスがあるじゃないですか。山本先生が患者さんを家に泊めたりするから、小さいお子さんもいらっしゃるし、奥様としては、芳子さんとしては大変なことも多かったと居樹さんがおっしゃるときに、規与子さんが「わかりますー」ってしみじみとおっしゃる声が入るんですよね。私、すっごい気になって。あのような素晴らしいご両親がいらっしゃって、ずっとお小さいときから尊敬されていたんですか? というより、グレたりしなかったんですか? 何というか、大人になってからご両親の素晴らしさっていうのはわかるけれど、それこそ小学生のころとかわからない。あのお父様でいらっしゃるわけじゃないですか。その本当の美徳というのは、子どもは全部わかるわけじゃないですよね。
柏木 ああ、なるほど、なるほど。多分、私は子ども心に全然親から優先されてこなかったと感じていたってのがあるんですよ。で、それが私、いやじゃなかったんですけど、それが子どものときはそういうものだとずっと思っていたんです。子どもっていうのは親のやることを見ながら協力していくもんだというふうに思っていたから、私はいつも親の協力しないとって思っていたんですよ。たとえば私が何か、ワーッと楽しそうに持って遊んでいた好きな遊び道具がふっとある日消えるんです。「あれはどうした?」って言ったら、父が自分の学校の子どもたちにもっていってるんですよ。父は、私が生まれたころ、それまで中学校の体育教員だったのが、養護学校の教員に変わったんです。だから私ぐらいの歳の、肢体不自由の子どもたちの学校だったので、その子たちに私のおもちゃとかをもっていくんですよ。それで私、「ああ、また私のあれがない」とか言っていて、「ああ、あれはちょっともろうたぞ」とか、「借りたぞ」とかってもっていくんですよね。しょっちゅうそういうのがあったし、あと、うちの母親が七宝焼きとか凝ってやっていたら、「おっ、面白そうじゃから、七宝焼きクラブを学校でつくるか」って、道具一式をもっていくんです。いったらもう返ってこないんですけども、でもそういうことというか、父親の仕事、要するに障碍のある人と私たちもみんなで一緒に考えて、何か共存しているみたいな意識はずっと小さいころからあって。それで、うちの母も、やっぱりそういう、何かあるときに、いつも私を最後にするっていう。
今村 ええー。
柏木 何か困った人がいたら、「規与子ちゃん、こうして」って。私が、「私もいま大変ー」って主張しても、「あなたは手伝いなさい」みたいな感じで、手伝う側に回されるっていう。ずっとそういう立場だったから、そういうものだと思っていて。で、あるとき、誰かに火事だったか地震だったかがあったときに、(その子の)お母さんにちょっと置き去りにされて、ひどい母親だみたいなことを(その子が)言っていて、「えっ、そんなの当たり前じゃん」と私は思って言ったんですよ。「そんなの一番弱い人を親は助けて、自分は後からこうやって一生懸命ついていくものだろう」って。そうしたら、「違うよ」って。「親っていうのは自分の子どもを一番に助けるよ」って言われたんです。それ多分ね、中学か高校ぐらいのときで、思春期とかで、そのときにはじめて、「そうなのかー」って思ったんですよ。
今村 えーっ、すごい。
柏木 うん。えーって。私はもう絶対自分は助けられないと思っていて、でもその分、「強く生きなさいよ」みたいに教えられはするんですよ。だけど、自分の子どもを一番優先するなんてありえない。ありえないっていうふうに思っていたんです。で、想田と結婚したら、想田のご両親は、「まず想田」っていうふうに。「まず和」っていうふうに。私、それ見て、ちょっと最初はうらやましさを感じたんです。いやあ、そういう育てられかたなんだなあと思って、何があっても「和」って、「一番に」って。うちはもう逆だったから。最後、いちばん最後。「あんたは自分でできるでしょ」って言われて、親は仕事。仕事っていうのも、やっぱり人と関わる仕事だし、うちの家はしょっちゅう、もう相談所みたいになっていて、人が来られて、「こうなんだけど、ああなんだけど」って、「もううちに泊まっていけば」って人が泊まっていったりとか、それこそ居樹(すえき)さんがあのときお話しされたような、そういう感じだったんですよ。
今村 それでね、だから。「わかりますー」っていうのが。
柏木 ああ、そうなんですね。もう何か自然に出ちゃってたんですね。