愛について
今村 ダイレクトに行きます。愛についてお伺いしたいんですけれども。
柏木 おおー(笑)。
今村 この本(山本昌知・想田和弘『人薬—精神科医と映画監督の対話』藤原書店、2022年)のなかで「想田は自己中心的な人間ですから」っておっしゃっていると思いますけれども。
想田 (笑)。
柏木 ああ、なんか言いました、そんなこと。
今村 でもその作家である以上、作品への愛というのは当然あって、で、作品のほかはどうでもいいみたいなところって絶対出てくるじゃないですか。
柏木 はい。
今村 一方で、ご両親なわけですよね。
柏木 はい。
今村 で、その愛っていうのは、ずれるじゃないですか。作家である以上、非常に残酷なところってやっぱり出てきてしまうというか。『Peace』には規与子さんが登場しないという距離感がいいなと思って。義理の息子さんがキャメラもたれるっていうのがいい距離感になっていると思うのですが、そうはいっても、『選挙2』で山さん(『選挙』、『選挙2』[2013]の主人公・山内和彦氏)の号泣している子どもをずっと長回しで撮っているような残酷さって、やっぱりどうしても作家にはあると思うんですよ[図-2]。そこらへんのことをお伺いできたらと思うのですけれども。
柏木 想田の愛っていうのは、やっぱり自己愛というか(笑)。まあ、誰でもそうですけれど、やっぱり自分が一番かわいいっていうのがあって、自分がかわいい、自分の映画がかわいい。だから、ほんとに残酷なんですよ。ものすごく愛情をもって映しているように見えますけれども(笑)。何を考えているかっていったら、やっぱり面白い作品を撮りたいっていうのが念頭にあるので、「そういうの撮るわけ?」って横から見ていて思うことはしょっちゅうあるんです。善いところも悪いところも、面白いところとして一律に撮りたいので、だから(被写体になった)本人としてはとても見られたくないような部分にも、わっとフォーカスしていくんですよ。
今村 『Peace』で、牛窓のお祖母様の御仏壇にお母様(柏木廣子氏)が手を合わせているときに、「こんなところは撮らないでくださいね」っておっしゃっていて、でも監督、「ハハっ」って笑ってずっとキャメラ回しているじゃないですか。
想田 あれはね、一応規与子さんに訊いたんですよ。これはほんとに嫌がっているのか、それともむしろ喜んでいるのかって。「娘としてどう思う?」って訊いたら、「これは喜んでいる」っていうふうに言ったんです。それで、「ああ、じゃあ使おう」って、使わせてもらったんですね。
柏木 絶対にやめてほしいって言って切ってもらった部分もあるよね。
想田 あったね、『Peace』は。
柏木 ほかの映画ではそういうことはまず言わないんですけど、『Peace』に関しては、これを入れたらもう両親がこのさき生きていけないだろうって思うぐらいの部分があって、それを、「これ、いいだろう」とうれしげに使っているんで、「想田、わかっているのか、この意味がー」と。「絶対に切って」と言って、切ってもらったんですね。
今村 『Peace』でお母様がお父様に、「こういうところ(猫の汚い飼い方をするのがどうでもいいことと思っているところ)、夫の大嫌いなところ!」っておしゃっていて、だけど、この本(想田和弘『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』講談社現代新書、2011年)の最後のほうに、「やっぱり柏木寿夫はすごいわ」っておっしゃっていたって書かれてあって。『精神』のときに、規与子さんが精神を病んじゃうぐらいに自己中心的で。
柏木 そうそう、そう(笑)。
想田 (笑)。
今村 それにもかかわらず、「想田和弘はやっぱりすごいわ」って思うところがあったら教えてほしいのですが。
柏木 そうですね。数十分前の話ですけれども、急に雨が降ったんですね。いまお話ししているここ、「海の家」って私たちは呼んでいるんですけど、この「海の家」のすぐ近くにもうひとつ私たちが住んでいる家、「山の家」っていうのがあって、そこでご飯食べていたら、ばーっとザーザー降りの雨が降ってきて。今日は「海の家」に純子さんをお招きするんで、海側の窓を開けて、風を通していたんですけど、雨がすごくて、「畳に吹きかかるんじゃないか」って私が言ったら、想田は、「ほいじゃ閉めてくるわ」って言って、雨に濡れながら窓を閉めに行ったんです。で、「あ、想田すごいじゃん、雨に濡れてまでちゃんと閉めに行った」っていうふうに思って。でもその後なんですけれども、ふっとこう、「あ、でも想田はもうこっち(山の家)に戻ってこないだろうな」と思ったんです。もうザーザー雨が降っていて。自分が濡れながら海の家に行って窓を閉めたらもう、絶対想田は、それ以上濡れたくないからそのままいるだろうなと思ったんですよ。私だったらもう一回山の方に想田の傘持っていくんだけど(笑)。でも、想田は絶対そういうことしないんで、私もザーザー濡れながら海の家に行くんだろうなって思ったんです。そう思い始めると、その思いみたいなのがもう、こう反芻されてくるんですね。「あのときもああだった」、「あのときもああだった」っていう、自分がないがしろにされたみたいな、大切に扱われないみたいな。ま、とくにそういうの、やっぱり撮影のときが多いんですけど。撮影のときにだいたい私が重い荷物を持って、雨が降ってきてとか、でも想田はキャメラがあるから私がこうやって濡れながらも想田に傘をさしてとか。もうそういうのとかがこういうふうに雪だるま式に出てきて、「あ、当然、当然私は濡れネズミよね」って。濡れネズミが海の家にやってきて、そのころ想田はシャワーでも浴びてさっぱりしているんだろうなとか、もう何かもう、つらっつらつらっつら出てくるんですよ(笑)。そしたら想田がガラガラって玄関開けて、「はい、規与子さん、傘」って言って、傘を持ってきてくれたんですね、山の家まで。私、「うそっ?」とか思って、すごくびっくりした。
想田 要は妄想だったわけですよ、全部(笑)。
柏木 いやもう、びっくりしたんです、私。「あ、傘」って、ぱっと玄関に置いて、またぱっと海のほうに戻っていったんですね。こっちに用事があったわけでもないんですよ。帰ってくるとしたら、ま、用事があったら来るかなぐらいに思ったんですけど、わざわざ私に傘を渡すためだけに雨のなかを戻ってきたっていうことにびっくりして、私。それで私、あっ、何か『走れメロス』のように、「ごめん、想田」みたいな感じで、「俺はおまえを疑っていた」みたいな感じで、バーっと今度は思い始めて、そしたら、そうだよなって。いざとなったら、最終的にはいつも想田はここにいて助けるような人だよなっていうふうに思ったんですよ。で、もう急に考えが、もう真逆になって、そうだよね、そう、「疑って悪かった、想田」って、ほんとに。
今村 想田さんを撮ったドキュメンタリー(櫻木まゆみ監督『映画作家 想田和弘の“観察”』日本電波ニュース社、2017年)も観たんですけれども、規与子さん、さっと想田さんの上着を後ろから取って、ほんとに助監督みたいにやっていらっしゃって。
柏木 ああ、なんかそういうのありましたね。
今村 それにもかかわらず、やっぱりここまでやられても、この作品があるなら、何かこう、解消するっていうのがあったら教えていただきたいのですけれども。
柏木 ほんとに撮影中はひっどい扱いですね。ほんとにひどい扱いです。だけど、まあ、そうですね、出来た作品を観たときには、まあよかったな、よかったなというか、想田じゃないと撮れない作品だなって必ず思いますから。
今村 『Peace』はどうですか。
柏木 『Peace』、私一番好きなんです。地味なんですけど、わかりにくいとも言われるんですけど。自分の親が出ているから、それでえこひいきなのか分かりませんけど。どっちかというと、最初は「うわっ、恥ずかしい。親の赤裸々な姿なんて」と思ったんですけれど。赤裸々すぎると思いましたけど、作品としてやっぱりすごく好きなんですよ。よくこんなん作ってくれたと思いました。
今村 もう被写体、ご両親の素晴らしさが格別で、何回も観直したくなるのは、やっぱりご両親からそのたびに触発される、内側から触発されるというのがあって、ほんとにもう奇跡だなって、恩寵みたいな映画だなって思っています。
柏木 そう、だからそこが不思議なところなんですね。想田のなんかこう、血も涙もないような、冷血な人間が、まあとくに撮影のときなんかいつもそう思っていたりするんですが、ほんとに。こんなところまで撮るのかとか、被写体の人が緊張するような圧迫感を出したりとか、それを一生懸命私が和やかにしたりとか目が離せない状態なんですけど、出来た作品を観ると愛が溢れていたりするんですよね。それがすごく不思議。そのミスマッチっていいますか。
今村 MoMAでの『精神0』上映後のトークのときに「患者さんとどういうふうに接するんですか」と司会者が質問して、「Love(愛)があれば大丈夫」って規与子さんおっしゃるんですよね。ただ、その愛の強さがどうも司会者には伝わっていないように感じたんですよ。その愛っていうのは、柏木寿夫・廣子ご夫妻の、あの愛の強さであり、(『精神』、『精神0』で描かれる精神科医)山本昌知先生のあの愛の強さなんだけど、それは、愛という言葉では伝わっていないように感じたんですよね[図-3]。
想田 そうですね。柏木の父と母に関して言うと、あの二人の、僕が尊敬する部分っていうのは、言葉ではすごく伝わりにくいんですよ。派手にわかりやすいことをやっているわけじゃなくて。しかもすごく照れがあるし、あの二人には。だから自分たちのやっていることを、小さく見せよう、小さく見せようとする人たちなんですよね。それは前から感じているんですよ。だから撮影しているときに、どうしたらこの感覚というか、僕が見ているこの二人の像みたいなものを映像に翻訳できるかっていうことは、やっぱり無意識に考えながら撮っているんでしょうね。僕は基本的には「どう描きたい」ということは考えずに、とにかく見たまま、自分が感じたままをどうやって映像に翻訳するかっていうことをいつも考えながら作るんですよね。だから編集しているときにも、自分がこう感じたようなことがどれだけ映像に正確に翻訳できているかどうかっていうことだけを吟味するんです。これで、だいたい伝わっている、自分の感じていることがだいたい翻訳できているって思えたら、そこで映画は完成するっていう感じがあるんですよね。
今村 『Peace』ってワイズマン(フレデリック・ワイズマン[Frederick Wiseman, 1930-])的なところもありますよね。何というのかな、これはフィクションなんだよっていうのをわざと見せている部分があるじゃないですか。たとえば、(訪問介護事業所)喫茶去(きっちゃこ)でお母様が電話かけているシーンで、『精神』のときのフッテージも使ってらっしゃいますよね[図-4]。
想田 そうです。よくわかりましたね。
今村 よく見ると廣子さん若いなって。
想田 (笑)。さすが百回観ている人は違う。それを指摘されたの、はじめてです(笑)。
柏木 すっごい。はじめて。はじめてだね(笑)。
想田 編集中、お母さんの仕事を描く上で、もう少し映像が欲しいなっていうのがあったんですよ。そのとき「そういや喫茶去は『精神』のときにも撮ったから、あのときの映像でちょっと何かないかな」と思って見たらあるわけですよ。
今村 現場というのは、それこそ選挙運動するみたいに行政に交渉することなんだというふうに、あのシーンはすごく重要ですよね。現場でマザー・テレサたるとはこういうことなんだという。
想田 そうなんです。ヘルパーの仕事は、家事を肩代わりするとかそういうことだけじゃなくて、その人が生活しやすいように、あるいはその人の生活のニーズですよね。いろんなニーズがあるので、それはもうメディカルなニーズもあるし、生活上のニーズもあるし、人間関係上のニーズもあるし、いろんなニーズがあって、そのニーズが何かっていうことを正確に把握して、手当てをするっていうことまでがすごく求められる仕事なので。ということがちゃんと伝わらないと、お母さんにも、ヘルパーさんにもフェアではないという。
今村 あそこのシーンが入って、お母様の「働くということ」がどういうことなのかが見えてくる。想田監督のフィルモグラフィー全体がそもそも、働くということが結局どういうことかって、根源的なところまで映し出していますよね。