「文学」という語

蜂飼 第十五章は「「詩」「小説」「文学」の〈古代から現代へ〉」です。この章では、とくに、「文学」という語、「小説」という語に注目されて論じられています。野口武彦の論文「近世朱子学における文学の概念」(『文学』1967・7―10)に触れながら展開されている箇所があります。いま、私たちは日常的に、文学、小説という語を使っていますが、元の意味に遡って、論じられています。小説認識の拡大があり、詩の領域でも当然、それは起こったのですね。
 「「文学」という語がこんにちのような文学性をあらわすようになるのは、むろん当初から詩文をその中心にかかえていたからだ。その詩文は『詩経』に発して儒学的な徳目に奉仕するように位置づけられてきた。したがって、われわれが「文学」ということばを、狭く文学性という切り口において使用できるようになってきたとは、それを儒学的な意味から離脱させてきたことの成果という一面があろう」と。ジャンルというか、各領域を指す言葉をめぐって、どのようなことをお考えでしょうか?

藤井 「文学」という言葉は、「文」と「学」とに分かれていて、対語になっているような例を次々に探していきました。楽しいからそういう作業を続けていったんですけどね。1000年も前からそういう語を彼らは使っている。そういうのも調べていけば、とくに江戸時代になって、大きくその意味が入れ替わって、近代を成り立たせると見えてくる。普通はそういうことを、西欧近代から説明するけれど、もっと在来の見方によってみたい。

蜂飼 現代の「文学」という語をめぐって、次のように書かれています。「文学的とか、文学性とか言う言い方を許すまでに、詩や小説や随筆を愛好する人たちの自己目的をさすようになってきている。それでよかったのか、という疑問を含めて、「文学」という語の長い経過をたどる必要を感じる」と。
 また、たとえばこういう箇所があります。「文学」という語は「新造語ではないからには前代の「文学」からの、意味上の照り返しや光の散乱がけっして小さくない、と思われる」。いずれにしても、語が抱えていた意味を少しずつ捨てていったと。
 時代は遡りますが、平安時代の島田忠臣、紀長谷雄などの詩についても、藤井さんは「詩じたいが自立してゆく」というふうにご覧になっています。このあたりについては、いかがでしょうか? どこで詩が立ち上がってくるだろう、という点には私も興味を持っています。

藤井 大きな見通しとして間違っていないと思うから、この本に書きましたけど、ちゃんと調べると面白い例がいっぱい出てくると思いますね。まあ、その後、いろいろと若い研究者が出てきていますから、いまの研究水準からしたら、構想だけで終わっているかもしれません。見通しは間違っていないと思うんですね。