複数の言語感覚をめぐって

 お書きになったものを読んでいると、日本語、フランス語、英語の他にスペイン語が出てきたり、うちなーぐちやベルベル語が出てきたりします。ご自身の言語感覚としてポリグロットな言語空間を意識してるんでしょうか。

陣野 どこに行ってもあんまりまともな言語を喋っていないという感じですね。元々、長崎弁で過ごしてきて、未だに自分の中には母語とは言いにくい東京の言葉を喋っているっていう感覚がありますから。それはどこへ行ってもそうで、例えばマダガスカルならまずマダガスカル語があって、フランス語というのは後天的に身につけられる特殊な言語なわけです。だからマダガスカルのホテルなんかでフランス語を喋る時は、自分も相手も後天的に身につけた言語を喋っているんだなと思いながら接しています。東京の人にはそういう感覚はあまりないと思うんですけど。

 後天的に獲得された言語で書いておられるというのは面白いですね。ただ、わたしなんかはどの言語でもラップ化されると理解できなくなる。ラップ・フランセなんか言葉としてすら認識できません。

陣野 ラップは僕も全然わからないです。はっきり言っておきますが。

 わたしもスペイン語のラップは全然ダメです。

陣野 ラテンアメリカ文学者の柳原孝敦さんから聞いたんだけど、スペイン語のラップはすごいことになっているんですよね? 誰かがその見取り図のようなものをつくらなければいけないんだけど、あまりにも盛り上がり過ぎているので誰も手をつけられない、と。スペイン語文化研究者の人たちにはぜひがんばってほしいです。

 こんど柳原さんに言っておきます(笑)。たしかにラテンアメリカではすごいことになっていて、たとえばチリには、ラップとロックやレゲトンやクンビアを融合させた曲作りをするウェチェケチェ・ニ・トラウンっていうグループがいますが、彼らは先住民言語のマプーチェ語(マプンドゥングン)とスペイン語(ウィンカドゥングン)を混淆させて歌ってます。彼らの出身地域は鉱山資源や水資源が豊富なので、歴史的に長いあいだ収奪の対象にされてきました。水資源が私有化されて水の使用権が市場に委ねられて、資金が潤沢な鉱山企業がそれを買い占めて先住民は水にアクセスすることすらできない状態に置かれてるんですね。先住民が置かれた状況は通常の回路では一般にはほとんど届かない。だからラップだ、というわけです。ラップを通じてであれば都市の若者や海外の人たちにも窮状を届けることができる。ただ、こういうふうに現状に批判的なラッパーがいる一方で、ボルソナロを支持するラッパーもいたりするんですよね。

陣野 僕もほとんど触れないけど、極右のラッパーって結構いるんですよね。

 アメリカのカニエ・ウェストなんかはトランプ支持者として日本でも有名ですね。でも日本では英語圏ばかり取り沙汰されるなかで、フランス語圏のラップという陣野さんの視点は、〈ラップ=英語〉という無意識の前提を覆してくれるので、すごく刺激的です。

陣野 でも、これから先は僕の力だけでは無理なので、何人かでチームをつくって、アフリカのフランス語ラップを押さえたいと思っています。セネガルはすごく面白くて、マリにも面白いラッパーがいるんです。結局その人たちを紹介するのもフランスの出版社やレコード会社だったりするから限界はもちろんあるんだけど、それを前提にした上でも、知ってほしい世界はあります。アフリカと言っても広くてもちろん英語圏、ポルトガル圏あるけど、少なくともフランス語に関してはちょっと形は残したいなと思っています。

 英語中心主義批判という立ち位置は「サッカー」という呼び名にも共通してますよね。『フットボール・エクスプロージョン!』(1999年、白水社)や『フットボール都市論』(2002年、青土社)とか。

陣野 最近はもう「サッカー」でしようがないと思って諦めるようになってきています。最初の2、3冊はずっと「フットボール」で書いていたんですけど、なかなか通じないから。

 ただ、やはり違うぞというのはあるわけですね。

陣野 ありましたね。イギリス中心主義みたいなものはお断りします、という。カタールで行われたワールドカップでもクロージング・セレモニーに出て来たのは、アラビア語とフランス語の両方で歌える歌手でした。英語の中心性に対する対抗、ともみえる。

 英語中心主義から距離をおくことで、世界の見方は違ってきますね。

陣野 とりあえず英語圏はお断りという感じはあったんだけど、最近ちょっと歳も取ったんで、「サッカー」と書くこともちょっと増えている気がする。それは改めて考えます。

 「フットボール」と言った時と、「サッカー」と言った時はやはり何となく感触は違うな、と。

陣野 違いますよね。やはり「フチボール」、ポルトガル語も念頭に置きたいです。