学生時代のエネルギー

 陣野さんが商業誌にデビューされたのは90年代の初め頃になりますか。

陣野 単行本が出たのは94年だけど、商業誌に書いたのは89年に「東京人」という雑誌が最初ですね。担当編集者が坪内祐三さんだった。

 坪内さんとはその前からお付き合いがあったんですか。

陣野 彼とは学部時代からの長い付き合いで、僕が大学1年生の時に彼が4年だったのかな。彼はそのまま大学院へ行って修士を出た後に、粕谷一希が立ち上げた「東京人」の編集部に入って3年くらいですぐ辞めちゃうんだけど。

 その間に書かれているんですね。

陣野 僕と坪内さんが2人で書いているページがあったんですよ。10カ月くらい連載したのかな。フランスとアメリカの雑誌の話を僕と彼で半分ずつ担当して、見開きの連載でした。彼は「東京人」を辞めた後、どんどん本を出して有名な評論家になっていったんだけど、僕とはあることをきっかけに大喧嘩というか、何か誤解してるんだけど僕に直接は言ってこないから困ったなと思って、いつか会ったら言い返してやろうと思っているうちに亡くなっちゃった。

 そうすると20代後半にはすでに商業誌でいろいろなものを書き始めていたということですが、それ以前から個人的にいわゆるアカデミズムの主流とは異なるものを書いていたんですか。

陣野 アカデミズムの保守本流にはいけないというのはなんとなくわかっていたので、そっち側に行かない道を模索していましたね。ただ、学部生の頃に「海燕」という文芸誌の新人賞に応募して、角田光代さんがデビューした時に僕も結構いいところまで残っているんです。学部の頃に最終選考に残ると、もう小説家になれると思うじゃないですか。大きな誤解なんだけどね(笑)。同時期に評論も書いていて、平田俊子さんが「現代詩手帖」の新人賞でデビューした時の評論部門にも僕の名前が載っています。それは伊藤比呂美について書いたんです。だからまあ、何か書いて投稿するという生活をしながら学部を過ごしていました。小説や評論を書いて生きていこうとどっかで思っていたんでしょうね。

 書くことや、音楽への関心は大学に入る前からだったんですか。

陣野 もう昔のこと過ぎて記憶が曖昧だけど、高校までは長崎で過ごしていたから、様々な文化に身を浸すようになったのは大学で東京に来てからですね。音楽に関してはTACOというバンドでベースを弾いていた大里俊晴さんの影響が大きかったですね。後に横浜国立大学の先生になる人ですけど、大里さんも五十代で亡くなっちゃいましたね。

 大里さんとかとのつながりは学部時代に遡るんですね。

陣野 そうです。当時の早稲田には変な人がいっぱいいました。変な人が変な人でいられたのが80年代というところはありますよね。町田康さんが、混沌としているものが混沌としたままあった時代、みたいな言い方をするけど、そんな感じはあります。まだいろんなものが整理できていなかった。ただ、本当に毎日、何をしていたのかわかりませんでしたけど。

 そのわからない日々の中で小説や評論を書かれていた、と。

陣野 道を間違えるきっかけは、誰かに褒められたりすることなんですよね。今でも覚えているのは、早稲田で教えていた、鈴木志郎康という2022年に亡くなった詩人に僕はなぜか褒められたんです。履修もしていなかったのに、書いた文章をたまたま読んでもらって褒められたことがあって、そのあたりで間違えた気がします(笑)。今でもそういう学生はいて、授業のリアクションペーパーに毎回1万字くらい書いてきたりするんです。きっとエネルギーが溢れていて、何かを読んで、自分の中でたぎるようなものがあって、それをアウトプットしたいという感覚はすごくよくわかる。ただ、何かに応募するとか、編集者に見せる前に読んでもらっていいですかみたいなことはお断りしていますよ。そこは一発勝負したほうがいいでしょう。