哲学対話の身体性と演劇性

渡名喜 こちらこそどうもありがとうございます。そうですね、皆様もお忙しいと思いますのでそろそろこの場も閉めたいと思っていて、ぜひせっかく傍聴に来てくださった方々にも、もし感想やお考えがあればと思っています。傍聴の方の中に、立教大学の兼任講師で「哲学対話 in Rikkyo」も担当なさっている鈴木信一先生がいらっしゃいます。鈴木先生、何かございますか。

鈴木 今日はありがとうございました。特に河野先生は、テニスや演劇性と哲学対話が非常に似ているというか、近いものであるとお話になっていました。私は障害のある人たちと即興ダンスによるセラピーをやっていますが、実は私も同じようなところを感じていました。最初は感想になるんですが、哲学対話において言語化するということは、即興ダンスにおいては動きを生み出すということになると思います。発達障害を持つ人たち、とくに私の関わる人は重度の人なので言語がほぼ使えない人が多いんですけれども、ダンスセラピーで踊っている発達障害があってワンセンテンス話せるかどうかわからないという人たちも、実は他者といかに関わるかとかですね、日常の動きと踊りの動きはどう違うんだろうとかですね、そういうテーマを自分で抱えて動いてると思うんですね。それで、他者と関わる、どう関わればいいんだろうということをずっと繰り返している。だから、ここで言語について主にお話しされているんですけれども、言語が使えない人たちにとっても、実はこれも、例えば即興ダンスで踊るっていうのも、ほぼ同じ趣旨を持っているのではないかというふうに私は感じました。それから、先ほど戸谷先生がおっしゃっていたオンラインとの関係なんですけれども、実際、言語活動と身体活動っていうのは非常に似ていて、相手の表情であるとか、相手との隔たりとかによって言語活動はどんどん影響を受けるわけですね。そういうことについて、やっぱり難しさがあると私は授業の中でファシリテーションをさせていただきながら思っています。先生方で、哲学対話の内において身体運動がどのように関わっているかについて、何かお考えをお持ちでしたら伺いたいと思いました。

渡名喜 ありがうございます。この点は特に齋藤先生、結構授業の中で体を動かすことを積極的に取り入れてらっしゃると伺ってますが、どうでしょう。

齋藤 はい。大人数の授業では対話とレクチャーを組み合わせるかたちでやっていますが、ゼミの方では数年間にわたって演劇と哲学対話を組み合わせるかたちでやってきました。そこで気がついたのは、先ほど河野先生がおっしゃられたある種のフィクショナル性というのもありますし、今鈴木さんもおっしゃられた身体性っていう部分もあります。つまり誰かの役になり切って誰かの台詞を語るというやり方です。他人の言葉を本当に自分のものとして語るとか、あるいは他人の言葉を語る者がどういう振舞いをするのかっていうのって、結構すごい深い問題だと思うんですね。それは、その言葉のメッセージ性っていうのはいったい何なのかっていうことを、まさに一回おなかの中に入れつつ、だけどそれとも距離を持つっていうことです。それは哲学的な思考と、あるいは対話的な思考ときわめて類似したところがあると僕は思っています。学生たちは台詞を当てられて演技をするっていうのをやりましたし、自分たちで脚本を作るっていうこともやったんですけれども、そこで間合いであるとか、あるいは身体の振舞いというのは何を表現するのかっていうことに対する意識も鋭敏なものに変化しました。それは大きく効果があったなと思っています。通常の哲学対話からすると飛び道具的なものですけれども、そういう成果はありました。

鈴木 やっぱり即興的に受け答えしている人と、よく考えて本当に役割を担う形でしゃべっているような人とでは、同じことをしているとは思えない。ただ、演劇でも即興演劇と台詞をしゃべる演劇ってありますよね。哲学対話のなかでも、その場で即興でやるという部分もありますが、即興性とストーリー性についてはどのように思われますか。

齋藤 脚本がある方が非常に安定性が高いっていうのはありますけど、でも同じ脚本でも一つとして同じ演劇ってないじゃないですか。まさにそこは即興性というところがあって、そういう即興性が非常に高くなっていくのが、鈴木さんがおっしゃられたような即興演劇みたいな、あるいは即興のダンスみたいなそういうものなんじゃないかって思います。とはいえ、対話はやはり即興的性格を持っているとは思います。