河野 あの、永井さんは知ってるかもしれないけど、私は結構、発言を待って圧力をかける方なんですよね。

永井 よく知ってます(笑)。

河野 自由にしゃべるよりも、均等にしゃべることを重んじています。話すと自分が傷つくような、本当に話したくないことは話さなくていいんですけども、考えがまとまっていなかったり、言葉が見つからないでいる場合には、「もっとゆっくり考えていいよ。みんなはもっと待ってあげて」って感じにしますね。なぜそうするのかっていうと、さっき言ったみたいに、しゃべりたい人だけがしゃべると一方方向にだけ進むんですよね。これを避けたいからなんです。前提を問い直す、積み木崩しみたいなことをやりたいので、積みあがったらすぐ足下を問い直すことをやりたいのです。他のしゃべってない人が発言することがしばしば前提を問い直すきっかけになるので、だから、結構待つんです。発言するまで待たれるのは、ある程度、本人には苦しいかもしれないけれども、本当に嫌がってるのだったら態度に現われるので、その場合には無理はさせないです。ただ本当のところはどうなのかはわからない。先ほど永井さんが、自分が何かで傷つけるかもしれないと言いましたが、それは最終的には誰も知り得ないことだと思うんですよね。例えば、永井さんは、私が宇宙人であることを未だに気づかずに、地球人の話ばっかりしてる。私はずっと齋藤さんにも永井さんにも心を傷つけられてきてるんですけれども(笑)、これは誰も気がつかないわけじゃないですか。だから、ありとあらゆることを配慮することは無理だと思います。
 そこで、私はよく仮定の話をさせることをしますね。フィクションとして語ってもらうのです。卒論とか修論とかでも自分自身のことをテーマにしたいけど、直接話せない、書けないっていう人が出てくるんですよね。そうした場合には、あたかも自分のことを第三者であるかのように書くように示唆しています。もちろん細かい点に変更を加えて、アバターみたいな形にした自分について書く。その距離感の取り方が大切で、対話っていうのはそれを学ぶ場じゃないかと私は思うんです。対話は結局、全部演劇なんじゃないかと思います。「本当の自分」なるものがあって、それを話すなんてことは原理的にありえないのではないでしょうか。対話では、何か演じてもらっている、アバターを前に出して話してもらっているのだと思っています。それは、あるポジションを取ってしゃべってもらうということです。ディベートもその形かもしれないですけど、哲学対話って自分と似たアバターをたくさん作る、そして自分を複数に分裂させていくゲームだと思うのです。ですから、発言をじっくり待つのは、発言者に自分を分裂させるためにやっているわけです。自分について語ることは、自分を対象化することであり、自分について反省することは自分のアバターを作ることだと思います。語られた自分は、何かの形で自分から切り出されたものなので、残った残余の自分と対象化された自分とが分かれるのです。しかし、こうした切り出しによって、自分は自分から自由になっていく、語られた自分、作られたアバターのどれでもないというかたちになって自由になっていく。そのどれが本当の自分なのかわからない浮遊感を持つことが、自分を解放する上ですごく大事だと思うんですよね。ですからそういう演劇性、あるいは、ゲーム性というかプレイ性というか、そういったものを学ぶ場が、子どもの哲学であると思っているのです。

渡名喜 今の話はすごく面白いですね。演劇化するといろんな自分を演じられるようになるというのは目から鱗の話でした。すみません。戸谷さんがそろそろ退席しないといけないということなので、戸谷さん、言い残したことがございましたら最後におっしゃっていただけないでしょうか。

戸谷 はい。今思っていたのは、河野先生のお話っていうのは、「なるほどそういう考え方もあるのか」というふうに思ったんですが、その一方で、河野先生が熟練しているからこそのお考えのようにも感じました。対等に話させるという手法を「じゃあそうすればいいんだ」と思って誰もが真似してしまうと、すごく問題が起きるような気もしています。なのでやっぱり齋藤先生がおっしゃるような勘所というか、経験を積むことで身に着けていくセンスというようなものは必要なのかなという気はしています。私自身も何回か、永井先生がおっしゃるようなマジョリティが押し切っていってしまうような哲学対話を進行したことがあって、終わった後でマジョリティに属していないほうの方から「実は嫌な思いをしました」とおっしゃっていただいたことがあって、やっぱりそういうのを聞くと落胆するんですよね。別に僕の責任ではないのかもしれないんですけど、もしかしたら回避することができた苦しみを作ってしまったのではないか、という感覚がありました。そういう場面に直面して、それでも開き直ることもできるのかもしれないんですけど、やはりファシリテーターとして、どうやってこの場に期待を寄せて来てくれた人に、その気持ちにそれこそ応答するか、答えていくかっていうのは、すごく僕も悩んでいるところでした。
 それから、大学における哲学対話についてですが、一つは、例えば、15回の授業のなかでテーマが大きく変わるタイミングで、哲学対話を取り入れることが有効だと思います。例えば倫理学を扱っているなかでも、いわゆる規範倫理学から応用倫理学に大きく話題がチェンジするときに、ブレインストーミング的に一回は哲学対話をやってみて、その後へのモチベーションを高めるっていうか、そういうかたちで使うことが私は多いです。それから、哲学教育からやや離れるんですけど、PBL(プロジェクト・ベースド・ラーニング)でも哲学対話は有効だと思います。例えば企業と提携して問題を解決するタイプの授業でしたら、そのときに企業が抱えている課題を分析していくときに、「そもそも価値ってなんだろう」とか、「そもそもサービスって何だろう」とか、そうしたことについて哲学対話的なことをしてみると、認識やアイデアを共有できます。永井先生が企業での哲学対話を実践されているとおっしゃっていたんですけど、たぶんそれに類するような効果があるのかなと思っております。すみません、ちょっと駆け足でまとまらないままお話ししてしまったんですが、実は9時に校門が閉まってしまいまして、閉じ込められてしまうリスクがあるので(笑)、お先に失礼させていただければと思います。今日は貴重な機会をいただきましてありがとうございました。