渡名喜 オンラインと対面は何が違うのかというのは、私自身が専門とするレヴィナスという哲学者にも関わるテーマでもあるのでいろいろ考えさせられるテーマでもあります。では、永井先生、お待たせしました。これまでの活動からまた改めて哲学対話のここがやはり意義ではという点について、お聞かせください。

永井 先ほど戸谷さんがお話しされてたことに本当に重なるんですが、私自身も哲学対話のファシリテーターをすることもあれば参加することもあるんですけれども、そこでの面白さは「他者性」に出会う機会だなというのを思っています。見慣れた他者がより他者であることがわかったりだとか、見慣れていたものが崩れていったりだとか。そしてやっぱり面白いのは、自分自身が一番「他者」なんだということに気がつく契機になるというか、「自分ってこんなこと考えていたんだ」とか、「全然うまく伝えられないんですけど」みたいなことがはっきりと感じられる、そのままならなさをそのままで生きるっていうのが哲学対話の醍醐味なのかなというのは思っています。本(『水の中の哲学者たち』)にも書いたんですが、よく哲学するとか考えることって、強くなるとか、主体的に考えられるとか、生き抜くスキルを手に入れられるなどと言われたりしますよね。もちろんその意義もわかるんですけど、一方で、哲学対話をするってすごく自分が弱くなったり脆くなったりする経験であって、その意味で稀有だと思うんですよね。他者に問いかけられて答えさせられてしまうとか、考えさせられてしまうとか、自分が世界に対してそのような自己であるということに気づかされるし、みんなでそれを味わうことができる時間だと思っています。それに、哲学は何も馬鹿にしないところが私は好きです。問いについても馬鹿にしないし、他者についても「そんなつまんない考えを言うな」とも言わない場なわけですよね、哲学対話って。そしてそれがいかに難しいかっていうことも同時に気づくわけで。「論理的なやつが勝ち」とか、「声が大きいやつが勝ち」というコミュニケーションはありふれていますけど、いかにそれが簡単だったかってことがわかるわけですよね。先ほど河野先生もスピークアウトはできるけどダイアローグができないっておっしゃっていたのもそれに近いと思いますが、勝ち負けを決めるのは私たちとても大好きで、わかりやすいし楽しいって思ってしまうんですけど、その反面で、ダイアローグすること、つまり弱くさせられることに耐えながら、それでもそれを続けるっていうことは本当に難しい。そうした難しさの中で、さっき言ったような、哲学は何も馬鹿にしないというところはすごく重要だと思います。哲学対話の場を開くと、「私なんかの意見が」とおっしゃる方って多いですし、私自身もやっぱり思うわけですね。わざわざ手を挙げて、「正義について私こういうふうに思うんですけど」っていうことって、やっぱりすごく恥ずかしいし、私なんかのしょうもない意見でごめんなさい、となってしまうんですけど、哲学対話の場って、どんな考えも真理にとっては必要で、探求にとってあなたは絶対に必要ですよっていう態度が最初から開かれている場だと思います。

渡名喜 どうもありがとうございます。私も実は今この座談会を傍聴している学生の方と、つい先日「大人になるってどういうことだ」という哲学対話を行いました。その学生と私の「大人になる」ということについての意見が全然違って、逆に私が大人って考えていたものはなんて脆かったんだろうかと思わされる経験でもありました。その意味では、今永井さんがおっしゃったことはとても重要だと思います。
さて、この後は、哲学対話の問題点ないし課題点についてお聞きしたいと思うのですが、その前に、話し足りなかったことや、あるいは相互にお考えになったことなどはございますか。

中編へ続く