米中新冷戦とグローバル化の時代の比較文明学

福嶋 そうなるとやはり多面的なビジョンが必要になってくるという意味で、比較文明学というセクションで佐々木先生が仕事をされているのは必然性があると感じます。

佐々木 比較文明学というのは、東西の文明を比較したり、古代と現代の文明を比較したりということではなくて、多様な文化を比べながらバランスをとっていく、その位置を見出すための営みだと考えています。

福嶋 例えば、アメリカはアメリカファーストでやっている。中国は中国で権威主義国家なので、表向きは「新しいシルクロード」を謳いつつも、実態としてはめちゃくちゃ抑圧的なことをやっている。だから、今の国際政治の中で協調関係を築いていくのは、非常に難しくなりつつある。そうした時代に即応した形で、思想も組み立て直さければいけない。かつての米ソの冷戦というのは、アメリカもソ連も大雑把に言えば西洋だし、どちらも新しい国家で建前としては民主主義を目指すということになっていた。ソ連もプロレタリアートを中心とした人民の国家をつくるというようなことを言っていたわけです。

佐々木 しかしソ連も実態は一党独裁で、民主的と言えるようなものではなかったですよ。

福嶋 それはもちろんそうですが、実態は収容所国家だとしても、建前や理念というのはやはり大事だと思うんです。今の中国では権威主義を止める理念は何もないので、習近平は昔の皇帝のような存在に近づいている。現在の新冷戦時代では、アメリカも中国もお互いにもうわかり合えないと思っているでしょう。
人々の交流はかつてなく盛んになり、お互い行き来することは非常に容易になった一方で、イデオロギーの水準では巨大な分断が発生している。と同時に、商業空間の均質化も世界規模で進んでいる。分断と均質化が進む世界では、何をどう比較すればいいかはますます難しい問いになりそうです。

佐々木 ひとつはグローバル資本主義の問題ですよね。中国は社会主義ではなく国家資本主義体制ですから、資本主義文化の画一性が都市にも画一化をもたらし、経済合理性のもとで似たような建物をつくられていくことになる。同じものが人類にとって本当にいいのなら、それはそれで構わないと思います。ただ、そうではない生の生活感覚があるとするならば、やはりそれは問題で、どこかで止めなければいけない。けれども上部イデオロギー、国家のレベルではそれは難しい。国家というのは現代的な生活の根っこから遊離した理論の空中戦の思想によってつくられているものですからね。もっと草の根の哲学というか、市民間で哲学的に考えられる人たちが交流することによって、まずは民主的な国家からその政府を変えていくのが一番現実的な道ではないかと思います。いくら中国だって中国から出てはいけないということはもうできないわけですから、他所の国へ行けばいろんな考え方を持った人たちと思想的な交流を持つこともできる。中国の中でもいろいろな動きがあって、それを武力弾圧するのも限界があるでしょう。そこで少しずつ譲歩を引き出して、徐々に変わらざるを得ない状況をつくっていくのが一番現実的で犠牲が少ない方法ではないでしょうか。
そのためにも、やはりより多くの人が大学で哲学・思想を学ぶようになるのが大事なことだと思います。大学の社会的意味にはいろいろあると思うのですが、やはり自分にとって本当によいこと、本当に利益になることを見極める見識を身に付け、個々の市民がしっかりと考えて生きられる人になる、ということがあると思います。いろいろな力関係で、場合によってはわかっていても選べないということがあっても、「やむを得ず選んでいるんだ」という認識を持って、チャンスがあれば違う選択に移ることができる。そういう人が一人でも増えていくことが、民主主義の社会が健全な道に進む方法ではないかと思っています。

福嶋 先ほどの話に少し戻ると、自己修正して地平を拡大できるのが教養人の特性であったとすれば、哲学的な教養人が増えることが民主主義や平和の条件になる、と。

佐々木 その通りだと思いますね。

後編へ続く