「存在」と「無」の間へ
佐々木 そうした時に参考になるのが、京都学派の「無」という概念です。「無」という概念は、西洋では「存在」の否定という形で間接的に表現される、論理的な概念としてあります。しかし、日本では、少なくとも言葉としては「『ある』の否定」という形はしておらず、独立した言葉です。だから「無」を主語としたような、実体化したような使い方もある。実際の生活の中でも、「間合い」や「空白」といったものを上手に使う文化がありますよね。あえてそこに実体的な存在者を置かないことで、逆に存在感を上手く醸し出す。西洋にはなかなかそういう文化はありません。
福嶋 「床の間」とか「人と人との間」といった概念ですね。
佐々木 それが日本の特徴で、西洋の実体と日本の「無」をどうバランスをとるのかを考えています。「存在」と「無」の間のバランスという考え方がないだろうか、と。これは例えば、人間関係みたいなことが一番わかりやすくて、西洋では初対面の人に自分がどれだけ優秀かがわかるように自己紹介をするけれども、日本ではそうやって人間関係の中で自分の存在を極度に強めてしまうと他人から嫌われますよね。「自分は何もできないんだ」と適当に存在感を消さないとその場にいづらくなる。しかし西洋人にはそういう配慮はあまりないでしょう。
福嶋 日本人はむしろ無、自己消去から入っていく。
佐々木 プレゼントを渡す時も、西洋では、渡したらすぐに「開けて」と言って、「どう? 素敵でしょう、あなたはこれが好きでしょう」と迫るけど、日本では「つまらないものですが」なんて言う。西洋人からはつまらないものを人にプレゼントするなと怒られてしまいますが、逆に日本で「これは立派なものです」と言って渡したら「この人は何を考えているんだ?」という話になる。そういうふうに、「存在」と「無」の間のバランスをとる文化が日本にはまだ残っている。これを、例えば国際関係のような場で少し応用できないかを考えていたりします。アメリカなんか、ドナルド・トランプみたいな人を選んでしまうでしょう。
福嶋 トランプはある意味で優秀なパフォーマーでしょうが、日本的な「無」の観念はないでしょうね。
佐々木 ありませんよね。とはいえ民主党も、近代的なある種の理念から「あらゆる人種は平等だ」「LGBTも差別してはいけない」と言うけれども、結局、自分たちのWASPの文化は決して捨てるわけではなく、いろんなものを受け入れて融合していくということは考えていない。いろんなものが混在することは認めるけれども、自分が変わることは必ずしも受け入れない。
福嶋 そう考えると、バラク・オバマを大統領に選んだのはえらいですけどね。
佐々木 アメリカの啓蒙主義的な側面がいい意味で機能したのでしょう。私はアメリカの啓蒙主義は表面だけだと思っています。アメリカは調子のいい時はオバマみたいな人を選ぶかもしれないけれど、ちょっと調子が悪くなるとトランプみたいな人を選んでしまう。アメリカにはローマ神話のヤヌスのような2つの顔があって、いきなり非常に野蛮で排他的なところを見せたりするのです。
そうではなく、まったく異質なものの間のバランスをとるというあり方が一番、存在としては安定しているのであって、そういう原理でもって世界観を組めないか。そうすれば、異なった伝統の間での融合や共存も、ガダマーとは違った仕方で可能になるのではないでしょうか。
福嶋 「無」というとニヒリズムが想起されますが、そうではなくてむしろ「間」としての「無」から社会像なり文化像なりを考え直していこう、というわけですね。
佐々木 ニヒリズムというのも西洋の考え方です。西洋の思想史の中では、「無」というのは破壊的な概念です。だから、ニヒリストというのは破壊主義者ですよね。例えば、ロシアのナロードニキのなれの果てが爆弾テロでもってアレクサンドル2世を暗殺したとか、ああいうようなものがニヒリストと言われたりする。
福嶋 ドストエフスキーが書いたテーマですね。
佐々木 そうです。そうではない概念が日本にはあったと思っていまして、それを生かしていきたいんです。
福嶋 お聞きしていると、佐々木先生はやはり京都学派の哲学と近いところで考えておられるように見えます。
佐々木 ただ、いわゆる京都学派は逆に日本のほうに重きを置いて西洋を排除するような方向へ舵を切ってしまった。アジアを植民地として支配しようとする西洋を逆に駆逐しよう、というのは当時の西洋人と同じ戦略です。同じ力を逆向きに使っているだけで、西洋の罠にはまってしまったと思います。