西洋哲学と日本哲学の融合という課題
福嶋 佐々木先生は以前からヴィルヘルム・ディルタイからガダマーに至る解釈学の伝統に沿いながら「生」をキーワードにされています。つまり、単純な計算力によっては支配されない領域から思想を立ち上げようとしてこられた。その問題意識とも交差する形で、90年代以降は日本の哲学と西洋の哲学という「地平の融合」の難しい二つの領域を、どう結ぶかということをテーマとしたわけですね。今、この問題についてはどういう展開があるとお考えでしょうか。
佐々木 日本哲学というのが、私の最終的な目的です。我々は西洋人ではないわけですから、西洋の哲学をそのまま我々が知ったところで現実の生活とどう関係していくのか、どう使われていくのかは非常に危うい。我々が自分で考えて自分の世界観を構築し、自分たちの今抱えている問題に対して自分たちで解決策、方向性を見出していけるようにならなければいけないのだから、日本哲学が最終的な目標なのです。ただ、さしあたって今の私たちは江戸時代より前の儒教や仏教の思想で考えても、その答えが見つからない状況にありますよね。なぜなら、現在の私たちの生活のほとんどの要素は西洋の近代文明が由来のものだからです。ただ、西洋の近代文明をそのまま使っているわけでもない。技術そのものはそうであっても、その技術を使って物をつくるというところでは、やはり西洋と同じものはつくらないわけです。日本人にしかできないものや、日本人の特徴というのはやはりあって、それが西洋人や他の地域の人たちから高く評価されるということもあったりする。
福嶋 文化的な「翻訳」の深さの問題ですね。
佐々木 完全に翻訳してしまうと日本語になってしまうから、外国にも売れなくなってしまう。
福嶋 西田幾多郎は典型的にそうだと思いますが、西洋の概念を強引に日本語のシステムの中に翻訳して、哲学をつくってきた歴史がある。それも広い意味では「地平融合」ではあるでしょうね。佐々木先生としては、そういう哲学史を踏まえつつ、日本からどういう哲学を組み立てていくべきとお考えでしょうか。
佐々木 私が強調したいのは、西洋のものを使いながら、「どこか違うな」という違和感を大事にしていくことです。その違和感を大事にしながら、どちらかに偏ってしまうと片方を排除することになってしまうから、両方に足を置くためにどこでバランスをとるのかを考えていますね。