実体的文明活動と非実体的文明活動
福嶋 ところで、今おっしゃったようなことは、本紀要の19号に掲載された「実体的文明活動と非実体的文明活動の間」という論文ともつながります。僕が論文を拝読して思い出したのは、晩年のフッサールが書いた『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』です。
フッサールはガリレオ・ガリレイ以来、自然を徹底して数学化していく流れが生じ、それが行き着くところまで行って20世紀まで来たけれども、結果としてそれが生活世界を隠蔽してしまったことを問題にしている。ガリレオは一面からすると「発明者」なんだけれども、他面からすると「隠蔽者」であって、その両方を見なければいけないわけです。佐々木先生のおっしゃる「実体的文明活動」は生活世界の営みであり、「非実体的文明活動」はガリレオ的な自然の数学化の営みと言い換えられると思います。20世紀の哲学の問題を引き受け、それをまた別の形で展開する。それもやはりガダマー的な実証主義批判とリンクするところがあります。
佐々木 まったくその通りです。例えば、林みどり先生がよく言及されるジョルジョ・アガンベンは、生政治、ゾーエーとビオスの区別を話題にしているように、我々の時代では理論と、現実の肉体的なものを含んだ生の生活が乖離しているんですね。それがいろんなところで悪い事象を引き起こしてしまっている。政治はもちろん科学技術でも、日常生活のほんのささいな一コマ一コマに、そういう乖離の結果である齟齬が生じている。それが人の精神を危うくし、不安を生み、うつ病みたいなものをたくさん生んでいる。これだけ世の中が豊かになって生活に困らないのに、なぜうつ病になるのか、何が不満でそうなるのか。江戸時代の人がタイムワープしてここへ来たら、「おまえら何を贅沢言っているんだ」と言うでしょう。
福嶋 「衣食足りて礼節を知る」という観念から言えばそうなりますね。
佐々木 科学技術で衣食足りても決して礼節は生まれないことを科学技術は予測できなかったということです。
福嶋 技術の進化がどこで最も深刻に問われるかというと、やはり生命倫理ではないでしょうか。例えば、遺伝子操作をどこまで許容するか、あるいは出生前診断をどこまで推進してよいか、というたぐいの問題です。実体的なものと非実体的なもの、身体と技術がいちばんシリアスに衝突するのが生命倫理の分野だとして、しかし今は計算可能性や操作可能性をどんどん増していけばいいという話のほうがお金を獲得しやすくもなっているし、産業とも結びついてブレーキが利きづらくなっている。
佐々木 現在、哲学が社会的に果たすべき役割のひとつは、そこにどうやってブレーキをかけるかということだと思います。今、人が使っているさまざまなシステムは、むしろブレーキを壊すようなものが多い。そのシステムと人間の生活との関係を明らかにし、どこをどう調整してバランスをとっていくのかを示せるのは、やはり哲学なのではないかと思っています。
福嶋 結局、計算力が上がってくると、これまでは操作不可能だったものが操作可能になり、その結果として人間は新たな選択を突きつけられるわけですが、その時の選択の支えになる基準がない。もう原理的には遺伝子操作でも何でもできてしまうんだけれども、そこで本質的な歯止めになるものは何もなく、議論も成熟しないうちに、テクノロジーだけが進化していくんですね。
佐々木 議論が成熟していないというか、生命倫理のような問題はそもそも議論によって何か決定的な真実が見えてくるといった性質のものかどうかもはっきりしないと思います。実際に結果として犠牲を出してみて、この犠牲は受け入れられるが、この犠牲は受け入れられない、というようなところから判断していかなければ、最終的には決まらないものなのかもしれません。
福嶋 一度痛い目を見ないとわからない……。
佐々木 痛い目を見ないために理論があるわけです。あらかじめシミュレーションして、被害を未然に防ぐんだけど、そのことが実は人の生の生活を損ねてきた可能性もあると思うんです。森岡正博さんの「無痛文明」(『無痛文明論』トランスビュー、2003年)という考え方に私はとても共鳴しています。とにかく痛みをなくすように動いてきた文明に対する警鐘です。その問題を解決していくために、やはりこの論文で書いたようなことを考えていかなければいけないと思っています。