啓蒙主義と科学の限界を乗り越えるために

福嶋 ガダマーのモチーフのひとつに、啓蒙主義や実証主義への批判があります。啓蒙主義はあらゆる先入観を排除して、まっさらな状態で認識を組み立てていくと言うわけですが、ガダマーの場合は、人間は必ず先入観の中にいるのであって、その中で判断していくしかない、ということになる。啓蒙主義や実証主義には限界がある、というのは佐々木先生自身の哲学観とも合致するのでしょうか。

佐々木 ええ、私はまったくそのように思っています。例えば、自然科学が考えているのもひとつの世界観なんですよね。

福嶋 ある「先行判断」がつくり出した世界観である、と。

佐々木 そうです。例えば、ニュートンの物理学で重力という概念がありますが、重力というのは一体何かといえば、形而上学的概念ですよ。重力とは質量のあるもの同士が引き合う力のことである、などと言われていると思いますが、直接触れないで力を及ぼすというのは念力みたいなものです。電気磁場もそうですが、その正体はわからなくて、ブラックボックスなんです。それをブラックボックスにしたまま公理にすると、こういう世界観が組まれますということを示しているに過ぎない。それがたまたま科学技術などを介して目に見える形で仮説が実証されるようなことがあるから、すべてが正しいのだろうと素人は思うけれども、その実証されたものはそのように実証されているだけで、そこから一事をもって万事というのは乱暴な論理です。科学技術が研究者の実験室の中で行われている限りは問題ないわけですが、社会化されて素人が使うことによって、科学が予想できなかった結果をたくさん生むことが当たり前になってしまっている。
それにもかかわらず、科学技術に対する信頼が失われないのはなぜかと言えば、経済性があるからですよね。みんなが「これはまずい」と思っているのに、お金儲けのシステムの一部に組み込まれているから止められなくなっている。同じ科学の中でも、地球の温暖化は人間の活動の結果だという説もあれば、関係ないという説もあるわけです。そういう大きな問題については、科学だって結論は出せないんです。

福嶋 例えば、重力の起源だって、いまだに解明できていませんからね。だから、ブラックボックスにしている部分が今でも非常にたくさんあるのに、それが無謬であるように人間はついつい錯覚してしまう。しかし科学というのは常に反証可能性へと開かれていなければいけないわけですから、無謬性を装うのではむしろ宗教と変わらない。それでは本当の意味で科学的とは言えないと思いますね。