対話の哲学者、ガダマー

佐々木 ハイデガーは話がうまくて、やはりカリスマ的なものがあったみたいですから、その語り口に学生たちは引き込まれていったそうです。そういうハイデガーと比べると、ガダマーはもうちょっと真面目な学者でなかなか芽が出なかった。ちゃんと講義ができるようになったのは40歳くらいの時です。ドイツではやはり講義が大事で、講義というのは、ちゃんと博士学位をとって、教授資格をとってというプロセスを経ないとできないのです。少人数による演習授業は、教授資格がなくても、場合によっては博士学位がない人でも、要するに教授が認めればできるのですけれどね。それくらい講義は重要だとされています。
ガダマーは20代の終わり頃に教授資格をとったものの、出席する学生から直接わずかな謝礼をもらって講義する「私講師」というポジションからなかなか出られなかったのです。ハイデガーにも「きみは哲学に向いていないね」みたいなことを言われたりして、プラトン哲学をはじめギリシャ古典の研究にしばらく没頭していたりしました。芽が出るのは40歳ぐらいで、運良くライプツィヒ大学の正教授に採用されたのです。まだ戦争中、ナチスの時代です。だいたい哲学というのはイデオロギーにかかわるからその時代の支配的な政治勢力の影響下に置かれてしまうのですが、ライプツィヒはなぜかそうではなく、ナチス色が濃い人はあまり好まれなかったんです。ハイデガーがナチスに傾いていく中で、ガダマーはハイデガーの弟子だったにもかかわらず、その時代にはハイデガーから少し距離を置いていたということもあり、色がないということで、ライプツィヒで正教授の職を得ることができた。そこから本格的に哲学者としての活動を始めるんです。
彼の資質として、フレンドリーで、人とやりとりするのが得意だから、対話するわけです。戦後は、ライプツィヒは東ドイツですからソ連の現地の指導者に見込まれて学長にされてしまう。それからは共産党の人たちや、ヒトラーユーゲントに取って代わった共産主義青年同盟みたいなものの学生たちとのやりとりでもずいぶん苦労したそうです。まだ壁ができる前だったのでフランクフルトに転出するチャンスがあり、そこでライプツィヒを飛び出して西側に移り、最終的にハイデルベルク大学に呼ばれて、そのまま晩年まで過ごすことになる。ハイデルベルクの前任者はヤスパースです。

福嶋 なるほど。対話は生存の技術でもあったんでしょうね。

佐々木 よく知られているようにヤスパースの奥さんはユダヤ人で、ナチス時代には講義を禁止され、ほとんど軟禁状態でした。そこで中立を掲げるスイスのバーゼルに呼ばれたのですが、結局ドイツを脱出できなかった。ようやく戦後にバーゼルに移れるようになった時に、その後釜としてガダマーがハイデルベルクにやってくる。そこで、コミュニケーションが得意なガダマーは、ある種の自分のシューレをつくってしまうのですね。
私も恥ずかしながら、晩年のガダマーに会ったことがあります。ガダマーは1900年に生まれて2002年に亡くなっているので、長生きしているでしょう。ガダマーの現役時代のドイツの大学の正教授は、60代の半ばになると授業はやらなくてもよくなるのです。いわゆる名誉教授になるのですが、日本では名誉教授は授業ができないけれど、昔のドイツでは名誉教授は授業をしてもいいし、しなくてもいいんです。しかも年金ではなく、満額の給料が終身で払われる。

福嶋 それはユートピアですね(笑)。

佐々木 それが正教授です。正教授というのは講座の主任で、正ではない教授は年金生活です。ガダマーは正教授だったので正規の給料をもらえて、研究室もあって、ずっと授業もやっていた。それから、アメリカでもずいぶん活動したので、彼の解釈学はアメリカで一番読まれているかもしれません。ドイツでももちろん哲学界の重鎮ですが、アメリカでもずいぶん普及しています。

福嶋 先生の訳されたジョージア・ウォーンキーは『ガダマーの世界─解釈学の射程』(佐々木一也訳、紀伊國屋書店、2000年)で、ガダマーをリチャード・ローティと結びつけていますね。解釈学はアメリカのプラグマティズムと交差するところがあったということでしょうか。

佐々木 相性は悪くないと思います。そんなことで、アメリカ人の弟子たちがハイデルベルクに来て、国際的なガダマーを囲む解釈学哲学会のような研究会を毎年開催していたんです。私もそれに3回ほど参加して、そのうちの1回は発表もさせてもらって、ガダマーと直接、話をさせていただく機会がありました。発表者は、親しい弟子たちがガダマーの自宅近くのレストランで開くパーティーに招いてもらえるので、そこでいろいろなお話をさせていただきました。

福嶋 どんな印象を持たれましたか。

佐々木 すごく親切で、愛想のいい人でしたね。

福嶋 やはり一貫して対話の人なんですね。

佐々木 ああいうタイプの人だからできる思想なのだと思いました。ただ、ガダマーの考え方のなかでひとつ、我々にとってはちょっとどうかなと思うところがあります。実は、ガダマーは何回も日本へ来るように依頼を受けたのですが、亡くなるまで一度も来なかったのです。その理由は彼にとってははっきりしていて、まったく異なる伝統に根を持っている文化同士はコミュニケーションが難しく、自分が日本へ行っても日本に貢献できることはほとんどない、と言うのですね。日本で珍しいものを見たり聞いたりすることはできても、それが直接、自分の哲学に寄与するのは難しいのではないか、と。そういうこともあって、アジアには来なかった。