教養の衰退がもたらすもの
福嶋 そうすると、91年以降の改革は教育的な視点から見ると失敗だとお考えですか。
佐々木 そうですね。途中から財界も文科省も「『教養教育は要らない』とは言っていない」といったメッセージを盛んに出すようになります。中教審の答申などでも「教養は重要だ」といった文言が入ったりするのですが、大学人の自己規定が「教養人」ではなく「専門人」になって、教員からも教養のたがが外れてしまった。しかも、大学教員の間での評価は専門性でしかなされないわけですから。
福嶋 教員もますますタコツボ化していく……。
佐々木 そうした傾向は顕著だと思います。70年代には学際的、融合的であるによって新たな文化をつくっていくといったことが盛んに言われ、例えば万博をやった頃はそうしたことを標榜する「未来学」などというものもあったわけです。
福嶋 林雄二郎や小松左京ですね。
佐々木 そうです。そうしたものも影響力を失ってしまった。
福嶋 未来つまり未規定なものについて大風呂敷を広げることはできなくなり、すでにあるものを追認する思考になっていく。
佐々木 大風呂敷はダメで、学問というのは細かくきっちりと詰めていく専門性が大事だという考え方が支配的になる。そうすると良くも悪くも研究者が小粒化していく。そういう流れの中で学生も「自分は小粒でいい」と思ってしまう。
福嶋 そもそも教養というのは、ガダマー的に言えば、自己修正を通じて認識の地平を拡大していくこと、あるいは自分と他人の間の互換性を増すことによって自己を対話的に構築するプロセスのことですね。だから、知識や情報をため込むだけでは教養にならない。教養は自己の成長や建設、つまりドイツ語でいうBildung(ビルドゥング)と不可分に結びついている。そういう意味での教養の概念が死滅していったのが、この30年ぐらいの大きな流れでしょう。
佐々木 そういうことですね。その結果、学生たちは自分を客観視することができなくなりつつある。自分の好みや趣味、自分らしさ、本当の自分、そういったものばかり追求していくのだけれども、そんなものは玉ねぎと一緒でいくらむいたって何も出てこない。自分というのはいろいろな他者との間でどういう位置取りをしていくかを通じてやっと自覚されるものです。ところが教養に関心がないものだから、異他的なものに対して対処していく訓練がほとんどなされていない。だから、自分を見直す機会もない。当然、変わることもできない。それぞれが独善的な自己中心主義を貫いて、衝突が起きたらその相手を排除することの繰り返しで、どんどん自分の世界を狭めていく。それで「寂しい」と言っていたりするわけです。