全学共通カリキュラムの創設と普及運動

福嶋 佐々木先生は立教大学の一般教養課程である全学共通カリキュラム(以下、全カリ)にもずっと関わってこられましたが、今から振り返るとどういう意味を持っていたと思いますか。

佐々木 全カリは1991年の立ち上げ時からずっと専門委員としてカリキュラムをゼロからつくる仕事をしてきて、2000年代に入っても全カリの運営には一貫してかかわり、自分でも必ず1科目は講義を担当してきました。2014年度から18年度まで部長を務めましたが、全カリはさきほど言ったような意味での大学教育の根幹を担う部分だと思っていて、そのプログラムを強化して学内に定着させることに意義を感じてやってきました。
91年の大綱化によって一般教育課程の法的根拠がなくなり、教養教育を担う組織も要らないということになりました。そこで教養課程を廃止して専門課程の充実に走った大学が多かった中で、立教は違っていました。立教の各学部の指導的な教員たちには、必ずしも教養課程をないがしろにしてよいとは思っていない人が多かったのです。むしろ、従来の一般教育部に丸投げするのをやめて、学部の自分たちが教養教育をやるという姿勢を示した教員たちがいたのです。それは後に学部長や総長のような幹部として立教大学を担っていく方々でした。そのような志や考え方を持った有志教員が協議して、全学に共通する新しい教養教育システムをつくことを目指してできたのが全カリでした。
国立大学では教養教育の分野ではよく委員会方式がとられるのですが、それは主体性も責任のありかも明らかではない組織になってしまいます。委員長も委員も他の委員会同様任期の間だけの仕事と割り切り、任期が終われば無関係になり、また新しい委員に自動的に交代してしまう。立教ではそうでなく、一般教育部のような固定的組織でないものの全カリの代表者である全カリ部長に学部長と同じ権限を与え、学部長とまったく同格で大学の重要政策に参画してもらい、当初は保健体育(現在のスポーツ)や英語などの外国語に関しては人事権も持っていました。あるいは、歴史や経済といった科目を全カリ独自のコンセプトで設置したいという場合には、その専門に近い学部に所属させながら全カリが主体となって人事を行うこともありました。だから、そこに集う学部教員たちにはかなり自覚と責任意識が生まれ、結果として主体性を持った実体のある運営組織が実現したのです。
その当時50代を中心とした全カリのコアとなる学部教員たちが話し合ってそういう方向を決めていきました。私はまだ30代半ば過ぎの若手教員で生意気なことを言っていたので、そういう人たちに雇われてその中身をつくれと言われたのです。
そこで、どういう科目が必要なのかといった科目表をつくったりするのはもちろん、講義で扱うテーマや狙いがわかるような講義名をつけるということもしました。

福嶋 「哲学への扉」とかですね。

佐々木 そうです。それ以前は「哲学」「数学」「倫理学」とかとにかく同じ名前の科目がたくさん並んで、例えば「哲学」という名前の講義が20科目もあったりしました。今のような細かいシラバスはなく、履修要綱にも数行のざっくりとした説明しかないわけですが、そうすると何が起こるかというと、学生が単位のとりやすいと言われる科目に集中するようになっていたのです。ある先生のところには1000人単位で学生が集まる一方、他の先生のところには数十人しか来ないといった、極端な偏りが起きていた。そういうことをやめてもっと実質的に勉強させるために、学生の関心に即して講義に名前をつけるということもしました。それから、1、2年生だけを対象にするのではなく、各学部の専門で少し勉強したことを応用したらどうなるのかという関心に対応するコンセプトの3、4年生向け科目もたくさん設置しました。そういった仕組みをつくり、学生にも教員にもことあるごとにその理念を伝えてきたので、自分に与えられた場所で、全カリ普及運動を自分なりに十分やってきたという自覚はあります。

福嶋 全カリは講義が中心ですが、それについてはどのようにお考えですか。例えば、カール・ヤスパースは大学の中心は講義だと言っています(福井一光訳『大学の理念』、理想社、1999年)。当時から講義は一方向的で学生が受身になってしまうからよくないと言われていた。しかし、講義においてこそ教員の持っている知識が人格や声とともに伝えられるのであって、それをおざなりにすることはできない、と。結局、情報が与えられるだけでは、人間は本当の意味で考えるという次元にたどり着かないんですね。現在では講義の評判はもっと悪くなっていて、学生から能動的にアクションし、教員が受けとめるというインタラクションが要求されるようになっていますが、やはり大学の大学たるゆえんは、顔を備えた講義にあると思います。

佐々木 おっしゃるように全カリは講義が中心です。ドイツにおける講義の位置付けについては少し後でお話ししたいと思いますが、現場で取り組んだのは、授業評価アンケートの導入です。学生が講義をどう受けとめたのか、レポートや答案だけでは汲みとれない部分をフォローするためのものです。これは国の方針でもあったのですが、「どうせやるのならちゃんとやろう」ということで、学生による授業評価アンケートの中身をつくったのは実は私なのです。アンケートを作成する全学ワーキンググループの座長に指名されて、いろいろな抵抗や反感を乗り越えて、今行われている制度をつくりました。

福嶋 そうなんですか。アンケートはいつ始まったのでしょうか。

佐々木  2000年代に入ってすぐなので、もう20年近く続いています。立教ではアンケートを始めた当初から所見表といって教員の側からも学生からのアンケートへの返事、言い訳を書くようになっていますが、あれも私がつくったものです。そういうことをして全カリを実質化させよう、中身のあるものにしようとやってきたのですが、時間が経つと形骸化していく側面はどうしてもあるとは思います。

福嶋 当初の理念を持続させていくのは、どんな分野でも難しいことですね。研究にしても学問的情熱を持続させるのは難しい。当初の好奇心は大学に就職すると消えてしまって、いかに競争的資金を獲得するかというたぐいの俗っぽい話ばかりになることは往々にしてある。今の大学では教員のモチベーションの引き出し方がかなり下品になっている。そのことが大学の荒廃を招いている気がします。

佐々木 科研費の金額や件数を対外的に示すことで大学あるいは研究者としての威信を示す、みたいなことになっているのやはり問題です。科研費を獲得しやすいテーマや研究、あるいは手法というのは明らかにあって、それはその時代の主流の研究に沿っているものなのです。「萌芽的」といった分野もあるにはあり、私もその分野で科研費をもらったことはありますが、あまりにもいろいろな制約があって使いにくいので、一度もらって以来、応募したことはありません。自覚的に応募しませんでした。お金をもらえるように研究を組み立てていく必要があるので、むしろ研究を抑圧してしまう側面もあるんですね。

中編へ続く