ある共同体の終わり方を考える
福嶋 『残された者たち』(2015、集英社)に、「浦」が過疎化して人間が減る前に魚がいなくなってしまったという印象的な一節があります。いつ始まったのかわからない「浦」も、魚や人間がいなくなれば終わってしまう。その感覚は、近作になればなるほど強く出てきている気がします。
小野 それはおっしゃるとおりです。マコンドとかヨクナパトーファでは始まりが意識されている。一方、こういう時代の日本で書く者からすると、むしろ終わりが問題になります。というか、僕は気になります。あるコミュニティの終わりの方の問題です。
僕にとって決定的に重要な転機が、『マイクロバス』(2008、新潮社)を書くときにありました。それは、日本に戻ってきて東京から田舎に戻ったときに、僕が知っている故郷と違うなと感じたことです。元気がなくて、何か力が失われて、衰弱していっている。自分の親が老いていくこともあるかもしれないけれど、少子高齢化が急速に進展し、何か土地そのものがすごく衰微していっているような、やや暗い将来を感じたんです。ちょっと大げさですけれど。少なくとも、これからどんどん人が増えて、まちづくりで元気になっていくことはない。終焉に向かいつつある感じです。その感覚は『マイクロバス』に結構入っています。それが、『残された者たち』になるとさらに進んでいる。あの小説なんて、ほとんど人が住んでいないですからね。
福嶋 限界集落の物語ですね。「コミュニティの終わり方」というのは非常に重要なテーマだと思います。
小野 そういえば、2015年にロシアで開かれた「第17回国際知的図書展non/fiction」に招待されたときのことです。ロシア国立人文大学で学生たちの前で故郷の話をしたのですが、彼らが「そういう人がいなくなって放棄された集落は、シベリアに行くといっぱいありますよ」と言うんです。「今、モスクワやペテルブルグは発展しているように見えるかもしれない。でも、ロシアも東側の奥に少し行くと、消滅した集落とか村がある。あなたの小説を読んでいるとそれを思い出す」と。その前にアルメニアにも行ったのですが、あそこはまさに出稼ぎ国家で、地方に行くと本当に集落に女の人とお年寄りと小さい子どもしかいないそうなんです。講演を聴いてくれた人から「あなたの書いている、消えつつあるような村はいっぱいありますよ」と言われました。
『にぎやかな湾に背負われた船』はベトナム語に訳されているのですが、ベトナムで講演をした際にも、似たことがありました。この小説には、地元の人と癒着というか、親しくなりすぎている駐在所のおまわりさんが出てきます。それを読んでくれたベトナムの人が、「これはベトナムの話かと思った。こういう警察官はベトナムの地方にもいますよ、あなたの書く作品は日本の感じがしない」と言うんです。
つまり、僕の書いている地方的な世界は日本だけの問題ではないんですね。都市部に人口が流入して、あとに残された場所が消えつつある現象は、世界中で起こっているのかもしれない。海外の読者と交流することによってそのことがわかる。福嶋さんが指摘してくれた、共同体の始まりというよりも共同体の終わりへの関心というのは、僕の作品のひとつの主題になっていると思います。
クロード・ムシャールとの出会い
福嶋 小野文学を大きく3期に分けるとすると、初期は「浦」を中心にして非常に豊かな語りが展開されていた。次に2000年代後半になると「浦」からちょっと離れて、『森のはずれで』(2006、文藝春秋)、『線路と川と母のまじわるところ』(2009、朝日新聞出版)、『夜よりも大きい』(2010、リトルモア)等の小説集において、「浦」を一度外部から相対化するような形で、小野さんの小説が再構築されていくように思えます。そして2010年代に入るあたりから、再び「浦」の文学に戻り『獅子渡り鼻』(2013、講談社)や『九年前の祈り』のような代表作が紡がれていく。「浦」から離れ、帰還するという10年がかりの運動があったんじゃないでしょうか。
小野 やはりヨーロッパに住んだからじゃないでしょうか。「浦」から完全に離れていたわけじゃないですが、フランスには8年近く住んだので、そのときに見聞きしたことが大きいのだと思います。下宿させてもらっていたクロード・ムシャールさんは、世界中の文学に興味がある人で、まったくフランス文学中心主義者じゃないわけです。むしろ外国の文学を読みたいと言う。そして、主に詩ですが、外国の作品を読みたいからと、留学生たちと一緒に翻訳までするわけです。
奥様のエレーヌ・ムシャール・ゼさんのお父さんは、ジャン・ゼという非常に重要な政治家でした。彼はユダヤ系だったこともあり、親ヴィシー政権に投獄され、暗殺されてしまった。そのような父親を持つエレーヌはフランスのユダヤ人迫害の問題に昔から取り組んでいます。オルレアンの近くに収容所が3つあり、そこに外国籍のユダヤ人とロマの人たちが集められ、アウシュヴィッツへの強制移送が行なわれたそうです。その記憶を継承していくためにメモリアル=記念館と研究センターを創設したのが、エレーヌです。そういう活動に傍で触れたことにも影響を受けました。