本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第18号』に収録された巻頭インタビューを、未掲載部分を加えて再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。
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教師としての西谷修

福嶋 今日は西谷修さんからお話を伺えることになり、とてもうれしく思います。西谷さんは1980年代以降、バタイユ、レヴィナス、ブランショ、ジャン=リュック・ナンシー等から、近年ではジャン=ピエール・デュピュイやピエール・ルジャンドルに到るまで、フランスの特異な思想家たちを精力的に日本に翻訳・紹介されてきた。と同時に思想家としても、戦争論、クレオール論、さらに近年ではアメリカ論まで、実に幅広いテーマを論じてこられたわけです。今日はこれらの多面的な仕事の一端をお伺いできればと思います。ところで、小野さんは実は西谷先生の教え子だそうですが……。

小野 そうです。西谷先生のすごいところは他所の大学の学生を育てていることですよね。

西谷 実は小野さんが学生の時に東大の駒場でフランス語を教えていたんですね。だいたいあそこでは若い研究者が語学の非常勤をやるんですが、私のフランス語はほとんど独習だから、自分では基礎から教わったことがない。そこで1年生は教えられないから2年生なら、というので週に2コマぐらい教えていた。そのひとつが小野さんたちのクラスでした。

その時、中級のフランス語を教えるのに一番いいと思ったのが、アランの新聞コラムでした。アランはノルマンディーの地方紙に長い間定期的にコラムを書いていて、それが本になっていました。シモーヌ・ヴェイユの先生で、哲学的素養をベースにしてアクチュアルな出来事についてもの言う人でした。そのエッセイは見開き2ページほどでちょうど手頃な長さ、それにテクストの密度は高いので、見つくろって面白そうなところを教材に使っていた。これは学生のためというより教師にとって都合がよかったんですね。その頃はまだ若かったから、フランス語の解説だけではこっちも飽きてしまうので、授業の半分ぐらい語学的な読解をやったあとで、あとは例えば、戦争中の犠牲の話とか、死の話とか、テーマに合わせてわたしなりの解説をする。要するに、語学の授業を、ものを考える授業にするということですね。

それで、授業のはじめに「今日は誰が担当する?」と聞くと、早くすませて単位を取っておきたいという連中はすぐにやってアリバイをつくってしまい、学期の途中から誰も手を上げなくなる。すると、フランス語を読むのは下手なのに毎回「はいっ」と手を挙げるのがいる。またおまえかって思うんだけど、熱心だから仕方なく当てるんですね。それが小野さんで、確か2年生だったよね。

小野 僕らは1990年入学なので、91年ですね。先生が40歳くらいで、ちょうど『不死のワンダーランド』(1990、青土社)が出たばかりの頃だと思います。

西谷 そうですね。

小野 僕が研究することになった、フランスのカリブ海にある海外県の文学、いわゆる「クレオール文学」を知ったのも、すべて西谷先生のおかげです。僕が大学院生の頃に、西谷先生がちょうど、『クレオールとは何か』(パトリック・シャモワゾー&ラファエル・コンフィアン、1995、平凡社)を翻訳されて、僕が大分の田舎の出身だという話をしたら、「こういうのを読むといいだろう」と言って、クレオール文学について教えてくれたんです。それで、シャモワゾーを取り寄せて読んだんですよ。