アティテュードとしての猫
今村 『港町』で久美さんが海沿いの道を行ったり来たりするじゃないですか [図-9]。こう行って、やっぱりこっちみたいな。ダンスのアティテュードみたいな瞬間がありますよね。想田さんの映画って、編集のときに、あの瞬間が、「風が吹く」みたいな効果を出しているようにも思いますけれども。
柏木 なるほど、なるほど。そうですね。
今村 拠点がないっておっしゃっていたようなこと、存在が半分もぎ取られたような感じとか、希薄感とか、根づいてない感じとかっていうのは、文学でヴァージニア・ウルフが意識の流れでやったようなことは、映画だったら映せるだろうなというふうに思ったりするんですが。結構、自分の問題として切実に響いてきてしまって。
柏木 そうなんです。ちょっとずつ忍び寄ってきて、不快になるような、もう蓄積されていくような。でも、いまここで、海辺で暮らしていると、何だろう、すごくもうそれこそ、本当に山も海もみんな、鳥とかもみんな平等にいて、別に男が女がって全くない感じで。人間の社会にはもちろんあります。とくに田舎だからありますけれども、だけどあんまりそこに焦点を当てずに……当てずにっていうか、当たらないですね。ここにいると、全然関係ない。
想田 猫、猫がすごい焦点なんですよ[図-10]。
柏木 そうですね。
今村 猫、やっぱり映画のリズムを当然作っていますよね。音楽というか。
想田 そうですね。僕らの映画にとって、猫は重要ですね。単純に猫が好きだから、
そこにいれば撮っちゃうっていうのがあるんですけど、今回の『五香宮の猫』も本当に成り行きで始まっちゃったんです。五香宮という神社、すぐそこにあるんですけど、そこに猫が二、三十匹住んでいるわけなんですよ。その猫を、すごくかわいがっている人たちもいれば、困ったっていう人たちもいるわけですよね。やっぱり糞をしたりとか、悪さをしたりとかっていう。コミュニティのなかでは、一つの大問題でもあるわけですよ。分断するようなイシュー(問題)でもあるわけですよね。
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今村 この猫、つるまないのがいいですよね。構わず寝ちゃうっていう。
想田 この猫は、僕らのチームの一員だと思っているので、窓や網戸で隔られていても、チームと同じ空間にいればそれで満足なんですよね。これでも輪のなかに入っているんですよ。話聞いているっていう感じです。
今村 なるほど、なるほど。ここ不思議ですよね。一つの絵としてやっぱり完結しているというか。そうですか。
柏木 ここはもうチームの輪なんですね。
(2023年9月8日、牛窓の想田・柏木邸にて)
インタヴューを終えて
ICレコーダーを止めた直後、規与子さんは、大学を卒業するまで、親子三人でお風呂に入っていたことや、親元を離れ東京へ向かう新幹線のなかで名古屋まで涙がとまらなかったことを話してくださった。親子でありながらいっさいの依存関係がない三人のあいだには、奇跡的に友情という愛のかたちが通い合っているように感じられた。
翌日、規与子さんがなさっている太極拳の講座に出していただくことができた。そこで、規与子さんの父である『Peace』の主人公・柏木寿夫氏にお目にかかることが叶った。『Peace』公開から十三年を経て、寿夫氏はますます輝いているように感じられた。寿夫氏は、重度の障碍を抱えるかたとも、高齢で病を患っているかたとも、猫とも、そして初対面の私とも、まっすぐ、一つもぶれずに目線を合わせられる。和製アラン・ドロンは、同時に和製・聖フランチェスコでもあられた。
目の前に海が広がる教室で、ただただ氏と同じ時空を共有するその僥倖に包まれた。
(今村記)
* 掲載したスクリーン・ショットはすべて想田和弘監督の提供による。