映画と舞踏
今村 規与子さん舞踏家じゃないですか。太極拳の師範でもいらっしゃって、お父様、お母様のお仕事と舞踏ということが、身体性ということで関わりがあるのかどうかと、映画と舞踏・太極拳がどう関わるのかということ、成り行きなのか、あるいは、もともと映画と舞踏のかかわり、映画そのものにご興味がおありだったのでしょうか。
柏木 そうですね。父は映画を大学時代からすごいたくさん観ていて、ものすごく好きなんですよ。私の小さいころからレコードで映画音楽がよく家に流れていたんです。私もずっと映画に憧れていて、中学のときから『ROADSHOW(ロードショー)』(集英社の映画誌、1972-2008)とか読んでいたんですよ。私が小さいころから母が月に一冊だけ雑誌を取ってくれるんです、小学校のときは『小学一年生』とか『小学二年生』とか。「中学からは何取りたい?」っていうときに、「『ROADSHOW』はどう?」って。それを読んでいたからずっと映画が好きで、でもやっぱり田舎の中学生で、映画館とか一応ありますけど、『ROADSHOW』に出てくるような映画は来ないので、ずっと「この映画観たい、あの映画観たい」ってのが頭にあったんですよ。大学では、映研(映画研究会)に入ったりして。だから、映画はずっと好きなんですね。
今村 そうなんですね。でも、たまたま声かけられただけ?
柏木 そうそうそう、そうです。JFK(ジョン・F・ケネディ国際空港)で想田に声かけられて、それで、「僕は映画やっています」って、「ああ、そうなんですか」って。でもニューヨークって映画の学生は山ほどいるから、“Uh-huh”(ふうん)ぐらいな感じで聞いていたんですよ。「あなたは何やっているんですか?」って、私は、「ダンス」って言ったら、「僕、知り合いでダンサーいるんです! 偶然だなあ」みたいなこと言うから、「ダンサーなんてニューヨークにはごまんと居るよ、ごまんと」って思って。「全然そんな劇的な出会いじゃないよ」、みたいな。でも、「えーっ」ってえらい盛り上がっていて、「好きな映画監督は?」って言われて、「小津とか」って言ったら、「僕もです!」って、また盛り上がって。私は、「そりゃみんな小津好きだろう」と思ってシラーっとしたりして、この人は私に話を合わせているんだろうと思ったんですよ。それで、はじめて想田の家に遊びに行ったときに、小津全集ズラーッとあって。
今村 それはニューヨークでってこと?
柏木 ニューヨークでです。そのとき、ああ、本当に小津好きだったんだって。私に合わせていただけじゃなかったなっていうふうに。
想田 合わせてねえよ(笑)。
柏木 そのときに思ったんですよ。で、「今度映画撮るんで、ちょっとダンスのシーンを入れたいので踊ってくれますかとか」って頼まれて、「まあ、いいよ」って、映画好きだし。
想田 まだ結構会ったばっかりのときです。
柏木 まだ会ったばっかりのころですね。想田という人、わりと面白そうな人だなとは思っていたんです。飛行機から成田から、もう電車のなかまでずっと話しても話が尽きないという、話せる人ではあるなと思っていたので、映画だったら私もまあ出てもいいかな、みたいに思ったんですね。うん。だから、想田の学生映画には全部、私ダンスで出ているんですね。
想田 『ア・ナイト・イン・ニューヨーク』(A Night in New York, 1995)っていうピザ屋を舞台にした映画なんですけど、それが僕の最初の映画なんですけど。
今村 そこに出ていらっしゃる。
想田 はい、16ミリの。
今村 すごい。観たいな。
柏木 そうそう、謎のダンサーとして出ていて、その後の『フリージング・サンライト』(Freezing Sunlight, 1996)でも、『フリッカー』(The Flicker, 1997)という卒業制作作品でも私がダンスで出ているんですよ。だから、想田の映画には、ちょっとしたダンスで出るっていう。
今村 じゃあ逆に、最近戻ってきた感じが。
想田 そうそうそう(笑)。
柏木 でも最近は不本意で。やっぱり私はダンスでものを語りたい。だから、自分の「あの、その」みたいなの、すごいいやなんです。もう本当にいやで、みみっちくって。ダンスではわりと堂々と語れるんですけど、ああいう形で出演というのは、実は本当に、不本意っていう感じで。堂々としてないっていうんですかね。びしっとステージング(設営)するか、もしくは全然出ないかっていうのがいいんです、私には。ちょっと話を戻すと、だから、映画に関わるのは自然な流れだったんです。うちの父がすごい映画好きだったし、うちの母も私に『ROADSHOW』を勧めてきたぐらいだから好きで。母は子どものころバレエをやっていて、大人になってからは太極拳とかやっていたから、私がバレエや太極拳を始めたのは母の影響だと思います。
今村 お父様は体育の先生だし。
柏木 そうそう。昔からフィジカルな家族で、なおかつ岡山の映画協会か何に入っていたから、岡山に面白い映画がくるっていうと、必ず家族で観に行っていたんですよ。だから、映画はずっと近しくて、想田を自然にウェルカムという感じで。
今村 映画のなかでね、まったく違和感なく流れていくフィット感が。
柏木 そうそう、そうなんです。そう、自然の流れですね。でも、最初の付き合い方が一番よかった。ダンサーとして想田の映画と付き合うっていうのが、一番、自分のなかではよかったんですよ。それがだんだんつくる側に協力するっていう形で想田の映画づくりに携わるようになってきて「こりゃすげえ、大変だな」、みたいな。二人でやっているから、やることが多い。だから、最初はもう、自分がやることをそっちのけでやらないと追いつかない。これが終わったらと思っているけれども、終わらない夢のようにどんどん逆に忙しくなっていったから、「ヒー」っていう感じで。
今村 また花が枯れちゃう。
想田 でもそれは多分、二作目の『精神』ぐらいまでなんですよ。
柏木 うーん。まあ、『精神』のときに私は山本先生に、「やりたくないことはやめろ」って言われて、そのやり方はもうやめた。まあ、『精神』の撮影は二年あったからね。一年目、二年目ってあって、どんどんワーッていうふうになって、もうこのままじゃ駄目になるなって思ったんで。次に撮影した『演劇』のときは、もう参加したい部分だけ参加したんですよ。ていうか、私、平田オリザ好きだし、想田に「平田オリザ面白いよ」って言ったのもね、私だし。でも予算や日程の関係とかいろいろで、フランスの部分だけ撮影に参加したりして、なんかちょっと軽くなったんですよね。軽い付き合い、ぐらいな感じになったんですけど。何だったかな、『牡蠣工場』でまたぐっとヘヴィーに関わったかな。『牡蠣工場』と『港町』。
想田 『牡蠣工場』と『港町』の撮影はずっと一緒にいたんですよ。これは牛窓なんだから、自分の。
今村 シマを荒らされたくないっていう。
柏木 そうなんです。そうそう。そこはもうピシッと全部、ちゃんとチェック入れとかないとっていうのがありましたよね。目を光らせて。
想田 でも、それもやっぱり撮影は三週間だし、編集もやっぱり基本は僕が編集して、時折一緒に見て、それでディスカッションしてっていう、そういう関わり方なんで、そんなにガーッと全生活をガーッとこっちに引き寄せる、みたいなことはもうなかったと思うけどね。