本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第24号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。
善への欲望
今村 想田さんって不思議なかたですよね。まず、規与子さんに反応するあたりとか、山さんに反応するあたりとか。
想田 (笑)。
今村 それでやっぱり山本先生も(『人薬』で)、「学生時代に燃え尽き症候群になられるようなかただから信用したんだ」みたいなことをおっしゃっていて。むちゃくちゃバランス感覚がよさそうで、真面目すぎるからアンバランス、みたいな。撮影も編集も整音も全部やるって、どうしてそんなことできるの? みたいなのは、そこで頭のよさを使って、それこそ入試で五教科八科目全部できるんだぞ! みたいなのをそこで消費して、そこで消費することでゼロにする。(『Peace』で寿夫さんがするお金ゼロのジェスチャーを示して)ゼロにする(笑)。だからまっすぐ海と友達になれるんだよね(笑)、と思うんですけど[図-7]。
想田 なるほど。
柏木 なるほど、なるほど。
今村 いわゆる世の中でいう頭のよさと言われている部分をそこで発揮することで、かなと思ったりするんですが、どうでしょうか。
想田 いや、でも、そうかもしれないですね。そうですね。リスクについての考え方とか、まさにそういう感じなんですよ。やっぱりドキュメンタリーってものすごくリスクの高い表現方法じゃないですか。だからそれ以外のことでリスクを取りたくないんですよ。
今村 ああ、「芸術のことは自分に任せる」(小津安二郎)か。
想田 だから、効率とかロジックで何とかできるようなことは、全部それで確実に処理しておきたいわけです。一番大事な部分は偶然とか、自分でコントロールできないものに委ねるしかないわけだから。つまり偶然に委ねるということは、結構ラッキーじゃなくちゃいけないわけですよ。多分、一人の人間に与えられるラック(幸運)の総量ってそんなに変わらないわけじゃないですか。だからそれを普段、無駄遣いしないほうがいいわけですよ。無駄遣いしないためには、ラックに関係ない部分では確実に論理的に、東大受験をするようにやっていくっていうのかな。たとえば、編集作業、そんなにラックいらないわけですよね。ここはもう本当に、自分の意志と努力と、かける時間によって、編集っていうのは決まってくるわけで、そこにラックを使っちゃうっていうか、そうだな、たとえば、この映画祭にもう出品が決まったんだけれども、だけどまだ編集ができてない、とかね。奇跡的に間に合うかどうか、みたいな感じで、そこでラックを使いたくないわけですよ。だから、そこのメリハリみたいなものはすごく僕は気にしているんですよね。だってやっぱりすごいラッキーじゃないといけないから、撮影時に。規与子さんはね、しょっちゅう普段ラックを使っちゃうんですよ。
今村 あー。
想田 僕から見るとそうです。
柏木 えーっ、そういうことを言う?
想田 (笑)。いつももったいないなと思っている。
柏木 いや、別に。だって、そのときそのとき、何て言ったらいいの、もちろん運の総量ってあるのかもしれないですけど、どうなんだろうな。やっぱり出し惜しむもんじゃないなっていうふうに思う。やっぱり使って、そこから転がっていくもんだからさ、ここで詰めといて、ここで、みたいに、そんな上手にいかないよ、運っていうのは。もっともう転がっていく。だからもう、やっぱりボンボン、ボンボン、ボンボン使っていけばいいもんなんよ。