本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第24号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

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音について

今村 『Peace』がやっぱり、全部含めて一番好きですけど、でも『港町』はやっぱりちょっと(猫の鳴き声)、ちょっと(猫の鳴き声)別格ですごいなと思っていて、それは、あの世とこの世が交差する桃源郷みたいなものを映しちゃったっていうか、生きちゃっている人がいて、今度映しちゃった(猫の鳴き声)、撮っちゃった人がいるっていう。ちょっとあれは恐ろしいって、今日『港町』のロケ地に来させてもらって、そんな気がするんですが(猫の鳴き声)、想田さんのなかで『港町』はどんな位置にありますか。なんか『Peace』とね、照応しあっているような気もするのですが。
想田 そうですね。『港町』は僕のなかでは、ようやく(猫の鳴き声)観察映画の文法とか、マインドセットみたいなものが体になじんで、NHK時代の呪縛みたいなものから解放されて撮れた作品だと思います。なんというのかな、あの作品で抜け出た感じがするんですよ、僕のなかで。だから、『港町』は本当に、観察映画っていうふうに標榜して撮ってきたようなものが、ようやくフルに花開いたなっていう感じが僕のなかではしています。
今村 そうですね。いままでだと、「想田さんだとこう来るな」っていうのがあって、長回しでずっときて、間奏シーンというか、別のショットが入って一体化するといったような。他方で、ここ(牛窓)には規与子さんの代々のご先祖や親戚のかたも沢山いらっしゃって、その土地のもつ力っていうのがあるのではないかなって。山本先生が(『人薬』で)「先祖をたどればみんな一緒だ」みたいなことおっしゃっていたみたいに。
 あとそう、『港町』のすごさって音ですよね。市場のシークエンスでプラスチックのトロ箱が重なるときの音がすごくよくって、「あ、いいな、いいな、もう一回聞きたい」と思って観てみると、すごく整音がいいというより、画の連なりと音が音楽を創り出していることに気づいて、「うっ」て、背筋がこう「うー」っとなったんですよ。音ももちろんいいんですよ、でもゾクッとする音が残像の音となっているのは、画の連なりと音のマッチなんだっていうのにすごいびっくりして、「何これ、神業」って思ったんです。
想田 ありがとうございます。
今村 あと、映画の色抜いちゃうとかね。
柏木 色抜きましたけども、音はでもすごいこだわってるんですよね。毎回すごくこだわっています。
今村 アナイス・ニンって作家が日記を書いていて、それが一つの文学作品になっているんですが、どうやって作品にしていくかというと、プルーストを読んだり、音楽を聴いて、意識の流れがまさしく流れるように作ってゆくと言っているんですが、映画の時間の流れで音楽というものをどう編集で作られているのかをお聞きできたらうれしいです。
想田 多分、編集では、二つすごく大事なことがあって、一つは論理なんですよ。理屈で、こう来たからこう来て、こう来てこう来る。ここはこういうセクション、ここはこういうセクションっていうふうに全部こう、自分で説明できるかどうかっていうのは一つ、僕のなかでチェックする部分なんですね。もう一つ大事なのは、映画的な時間が流れるかどうかということです。で、映画的な時間というのはめちゃくちゃ主観的なもので、言葉では表しにくいことじゃないですか。「映画的な時間が流れるって何だ?」って言われてもわかんないんですけど、見ればわかるんですよ。ああ、ここは流れてない、ここは流れている。そこはものすごく僕は重視するんですよね。で、映画的な時間が流れるためには、音はものすごく大事です。これはなぜだかわからないんですけど、音をこのフレームで切ると時間が流れるけど、ちょっとそれが一フレームでも違ったりすると、突然何か、「うっ」となるっていうことがあるんですよね、実際に。で、それがなくなるように、ああでもない、こうでもないって、音もどんどん調整していくんですよね。
今村 なるほどね。
想田 そのときに現実の音をそのまんま同録(同時録音)で行ってそのまま行けるときもあるし、同録のまんまだと、どうも流れないっていうこともあるんですね。そういうときには少し何か別の音を載せたりとか。たとえば『港町』のなかで、高祖鮮魚店の店内で息子さんが魚をさばいているかたわらで、おかみさんがこうやって魚をパッキングしているようなときにも、こっちで息子さんがさばいている音を基調低音のように流しておくとか、それをしてはじめて映画の時間が流れる、みたいなことっていうのはよくあるんですよね。それはやってみないとわかんないんですよ。もちろん、僕のなかで、こうすると流れるに違いないっていう直観みたいのがあって、それは当たることが多いんですけれども、当たらないこともある。やっても、「ああ、だめだな」とか、「これはうまくいくな」とかって、もう本当に試行錯誤で、映画の時間が流れるように、ほとんどこれは彫刻みたいなもんで、粘土細工とか、そんなのと同じで、「多分このへんちょっと膨らませるといい感じになるな」、とか、「ここなんか貧相だから、ちょっと粘土足してみよう」、とかっていう感じで、ちょっとずつちょっとずつディテール(細部)を詰めていく。最初はもう本当、荒削りですけどね。そこからやっぱりディテールを詰めていくと、だんだん流れてくる。ただ、そのときに、シーンのなかでは流れていても、ほかのシーンと接続すると、突然流れなくなったりもするんですよ。だから、いま仕上げをしている作品もね、『五香宮の猫』(2024年公開予定)っていう作品なんですけど、二十編ぐらいはやったよね。二十バージョンぐらいはやっぱり編集し直して、規与子さんと一緒に見て。
今村 猫映画?
想田 この子(猫のチャタ君)も、たくさん出てきますけど。そうですね。だから、映画の時間が流れるようにするためには、やっぱりそれだけの試行錯誤は要ります。そのなかで、音楽じゃない、音。音の果たす役割ってめちゃくちゃ大きいです。