遠さについて

今村 『港町』が不思議な作品であるのは、非常に残酷な映画でもあるじゃないですか。殺生に関わるというか、(高祖鮮魚店のおかみさんがパック詰めした魚を見つめて)「まだ生きとるわ」とおっしゃたりとか。そもそも(主人公の)ワイちゃんの漁は魚を殺すことだし。牡蠣パーティーのシーンがあって、「ああ、寿夫さん、廣子さんも牡蠣食べるんだ」とか。「共存と言ってきた山本先生も牡蠣食うんだ」っていう(笑)。で、そこで規与子さんの声が入る。想田和弘監督のフィルモグラフィー全体のなかで最も詩的な映画だと思うのですが、それは、非常に残酷なところが入っているということと規与子さんが入っているってことが大きいなと思うんですよね。あの幻想的な、この世とあの世の交差点のようなモノクロにされていて、やっぱりここの土地っていうのを、それこそ今日ご両親が出会われた場所だっていうのもお聞きして、そういうのが不思議ですよね。それこそ監督の力量というのはもちろんあって、なおかつ、この場所の力っていうのはものすごくあるのかなと思って。
 『Peace』のときに、遠く(ニューヨーク)にいるから長崎のお土産が映せるんだって、生活習慣が違うからその新鮮さに気づくっておっしゃっていましたよね。想田和弘という作家は距離が必要なんだと思っていて、必ず、もう届かない、もう撮れないっていうような、それはあの世とこの世とにもつながるんだけど、二度と戻らないもの、みたいなところがどうしても必要なんだと思っていたんですよ。なかなか難しいじゃないですか。苦しかったりもするというか、そんないいところばっかりじゃなくて、ご両親の苦労とかも見ていらっしゃるわけじゃない。それを撮ってもらった、みたいな、規与子さん、そういうのあるのかな。
柏木 作品になったときには、やっぱりすごく感謝しましたね。本当に地味な活動なので、うちの両親がやっているようなことは。うちの両親も当たり前だと思ってやっているので、それが何かスポッと、ボッと当たった、みたいな感じで、わかりやすく、美しく描かれていて、「おお!」って、感謝だなって思いましたね。
 MoMAではじめて上映があったときに、客席から、すごく私が評価されるというか、なぜかわかんないんですけど、「あのご両親だったら素晴らしい子に違いない」、みたいな勘違いをして、私に“You’re great”(あなたは偉大です)みたいな感じで。「私じゃないない」って言うんだけど、「いや、絶対あなたはいい人だ」って言われて、「なんか株が上がった、私」って思いました(笑)。本当にびっくりしました。いや、本当は両親の功績ってのはおかしいですけど、地道にやってきたことを、想田が撮ってくれて、それをみんな観てくださってワーッて感じになったんだと思うんですけど、ワーッてなるほどの何もないんですよね、やっぱり。はっきりと「ここが感動でしょう」みたいなところって、どこもないと思うんですよ。でもちょっとずつの何かいい感じの積み重ねでフワッとしている、みたいな感じの、非常に霧に包まれたような映画っていう感じがするんです。繭に包まれたような。想田がビシッと球を投げてくる、みたいなのじゃなくて、「何だろう、これ」みたいな感じの映画に私は感じていて。光の塊みたいな。それをみんなでこうやって観るっていうような感じ。そう。それで終わった後に、「本当あなたは素晴らしい人よ」、とか言われて、「いや、困ったな」っていうふうに(笑)、これはずっとMoMAの上映で言われ続けて本当に困ったんです。客観的に親の仕事を見て、「よくやっているな」とは思います。「大変なんだよ、これが」って、「振り回されて」っていうふうに思うような気持ちももちろんずっとありますけれども、だけどこうして見ると、「それは仕方ないよな、振り回しても」と思いましたね。だからもういろんな面で想田に感謝っていうか、この記録を残してくれて、しかも近すぎて見えなかった部分もしっかり見せてくれて、もう感謝だなっていうことですね。
今村 いや、それがね、ドキュメンタリーで、なんで原節子と笠智衆のやりとりみたいに、私、暗唱できるんだろうって(笑)。細胞の一つ一つまでというか、小津調の演技指導が入っているがごとくに、その相手の立場に立っているっていうことと、言葉の強さというのが。
柏木 なるほど、なるほど。なるほど。やっぱり相手がいて、その相手としっかり話しているので、それで言葉が、もしかしたらすごく洗練っていうか、選んでいるんですね、かなりね。この人に響くようにっていう言葉を選んでいる。無意識のうちだと思うんですけど。だから台詞みたいになるのかもしれない。これがインタヴューとかで、「ああ、まあ、その……」ってやると、いくら上手にしゃべっても、Uh-huh(ふうん)ぐらいな感じじゃないですか。でも、本当にみんな真剣に、一生懸命生きている人たちと自分がそこでなんとかできないかっていうふうに向かっているから、やっぱり真剣な言葉が出てくるんですよね。だから、その美しさみたいなものが映っていると思うんですよ。作り物じゃないものが。
今村 すごいな。そうすると、観察映画っていうのが『Peace』をある種転換点として観察、observation(オブザヴェイション)よりも、contemplation(コンテンプレイション、観照)のほうに近いのかなって。それこそ、心で観るというか。私、自分が弱い人間だっていうのと、『Peace』が好きだっていうのはすごく関わっていて、子どものころ、夏休みの始まる7月21日に東京大空襲のアニメ映画『猫は生きている』(島田開監督、1975)を観て、その夏休みがパーになっちゃったことがあるんですよ。恐怖で心が凍っちゃったというか。『Peace』は、いつも心を柔らかく保つことができる。取り立てて何かが起こるわけじゃない。でも観ている人の心のうちでは起こっているんですよ。「あんな素晴らしい方々がいらっしゃって、なんて自分はダメな人間なんだろう……」、とはならないんですね。お父様、お母様のような生き方ができなくても、ちょっとでも与りたいという欲望が内側から溢れ出てくる。それは自分自身の生をクリエイト(創造)していることに直結してくる。とすると、観察っていう、observationというのを超えている気がしちゃうんですけど。
想田 そうですねobservationはあくまでも僕にとっては手法というか、態度なんですよね。そこから何が切り開けるかっていうところが、結構、本当は大事なんだろうと思っています。だから、手法がobservationで、よく見てよく聞くっていうその態度で映画を作るんですけれども、でも、できあがったものがobservation、観察映画っていう名前にはあんまり合わない、みたいなところに行けたほうが、僕としてはうれしいんです。だから、究極的には、それこそ詩みたいなもの。やっぱり映画なんで、ある意味、映画を観た後に、「ああ、いいお湯だった」、みたいな。それはすごく僕にとっての「いい映画の基準」みたいなところがあって、観た後に、「ああ、いい時間を過ごした」、いい時間っていうか、何だろうな、シャワーを浴びた、みたいな、あるいはいいお風呂につかった、みたいな、そういう湯上り感みたいなもの、というのを自分は目指しているところがあるんですよね。だから、それはやっぱり論理の部分だけでは作れない部分っていうか、論理を超えたところにたどり着きたいっていうふうには、いつも思っていますね。
今村 『Peace』は、あの時期の想田さんの手法から外れているわけじゃないのに、それこそ内発的にどんどんその場でクリエイトされるというか、観る人とクリエイトされていくっていうのはすごいことだなと思って観ていて。
想田 私(わたくし)映画というか、僕のなかではだんだんその私映画的になってきているというか、体温のある映画っていうか、体験談とか日記とか、そういうものに自分の映画はなっていっているような気がするんですよね、どんどんね。やっぱりジャーナリズム的なものからどんどん離れていくっていうか、客観性からも離れていくし、どんどん、どんどん主観と、あと詩情。

後編へ続く